往生要集を読む  巻下

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、   と。<已上>
原文 訓み下し
往生要集 巻下   天台首楞厳院沙門源信撰 往生要集 巻下   天台首楞厳院沙門源信撰
 大文第七、明念仏利益者、大分有七、一滅罪生善、二冥得護持、三現身見仏、四当来勝利、五弥陀別益、六引例勧信、七悪趣利益、其文各多、今略挙要  大文第七に、念仏の利益を明かさば、大いに分ちて七あり。一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来の勝利、五には弥陀の別益、六には引例勧信、七には悪趣の利益、その文おのおの多し、今略して要を挙げん。
 第一に、滅罪生善とは、観仏経の第二に云く、於一時中、分為少分、少分之中、能須臾間、念仏白毫、令心了々、無謬乱想、分明正住、注意不息、念白毫者、若見相好、若不得見、如是等人、除却九十六億那由他恒河沙、微塵数劫生死之罪、設復有人、但聞白毫、心不驚疑、歓喜信受、此人、亦却八十億劫生死之罪 第一に、滅罪生善めつざいしょうぜんとは、観仏経の第二に云く、
一時の中に於て、分ちて少分となし、少分の中に、能く須臾の間も、仏の白毫を念じて、心をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明正住にして、注意を注いで息まず、白毫を念ぜん者は、もしは相好を見たてまつり、もしは見たまつることを得ざらんもかくの如き等の人は、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却せん。たとひまた人ありて、ただ白毫を聞いて心に驚疑せず、歓喜し信受せんには、この人もまた八十億劫の生死の罪を却かん。
又云、仏去世後、三昧正受、想仏行者、亦除千劫極重悪業<仏行歩相、如上助念方法門> 又云、仏告阿難、汝従今日、持如来語、遍告弟子、仏滅度後、造好形像、令身相足、亦作無量化仏色像及通身色、及画仏跡、以微妙糸及頗梨珠、安白毫処、令諸衆生得見是相、但見此相、心生歓喜、此人、除却百億那由他恒河沙劫生死之罪 と。また云く、
仏、世を去りて後、三昧正受して、想仏行を想ん者もまた千劫の極重の悪業を除かん
と。<仏の行歩の相、上の助念方法門の如し>また云く、
仏、阿難に告げたまわく、「汝、今日より、如来の語を持ちて、遍く弟子に告げよ、仏の滅度の後は、好き形像を造りて 、身相をして足らしめ、また無量の化仏の色像及び通身の色を作り、及び仏跡を画き、以微妙の糸及頗梨珠を以て白毫の処にとどめ、令もろもろの衆生をしてこの相を、見ることを得しめよ。ただこの相を心見て心に歓喜を生ぜば、この人、百億那由他恒河沙劫の生死の罪を除却せん」と。
又云、老女見仏、邪見不信、猶能除却八十万億劫生死之罪、況復善意、恭敬礼拝<須達家老女因縁、如彼経広説> 又云、諸凡夫、及四部弟子、謗方等経、作五逆罪、犯四重禁、偸僧祇物、婬比丘尼、破八戒斎、作諸悪事種々邪見、如是等人、若能至心、一日一夜、繋念在前、観仏如来一相好者、諸悪罪障、皆悉尽滅 と。また云く、
老女の見仏を見たてまつりて、邪見にして信ぜざるも、なほ能く除却八十万億劫の生死の罪を除却せり。いはんやまた善意にして恭敬し礼拝せんをや
と。<須達の家の老女の因縁は、かの経に広く説くが如し>また云く、
もろもろの凡夫及び四部の弟子、方等経を謗り、五逆罪を作り、犯四重禁を犯し、僧祇物を偸み、比丘尼を婬し、八戒斎を破り、作もろもろの悪事、種々の邪見を」作さんに、かくの如き等の人、もし能く至心に、一日一夜、念を繋けて、前におわすが如く仏如来の一の相を観ぜば、もろもろの悪も罪障も皆悉く尽滅せん。
、又云、若有帰依仏世尊者、若称名者、除百千劫煩悩重障、何況正心修念仏定、宝積経第五云、如有宝珠名種々色、在大海中、雖有無量衆多駃流入於大海、以珠火力、令水銷滅而不盈溢、如是、如来応正等覚、証菩提已、由智火力、能令衆生煩悩銷滅、亦復如是<乃至> 若復有人、於日々中、称説如来名号功徳、是諸衆生、能離黒闇、漸次当得焼諸煩悩、如是称念南無仏者、語業不空、如是語業、名執大炬能焼煩悩 と。また云く、
もしは仏世尊に帰依することある者、もしは名を称する者、百千劫の煩悩の重障を除く。いかにいわんや、正心に念仏定を修せんをや
と。宝積経の第五に云く、
宝珠あり種々色と名づく。大海の中にありて、無量衆多の駃流の入於大海に入るものありといえへども、珠火の力を以て、令水をして銷滅せしめて而不盈溢せざらしむるが如く、かくの如く、如来・応・正等覚も、菩提を証し已れば、由智火の力に由りて、能く令衆生の煩悩をして銷滅せしめたまふこと、亦またかくの如し。<乃至> もしまた人ありて、日々の中に於て、如来の名号の功徳を称説せば、このもろもろの衆生は、能く黒闇を離れて、漸次に当にもろもろの煩悩を焼くことを得べし。かくの如く、南無仏と称念せば、語業空しからず。かくの如き語業をば、大炬を執りて能く煩悩を焼くと名づく。
遺日摩尼経云、菩薩、雖復数千巨億万劫、在愛欲中為罪所覆、若聞仏経、一反念善、罪即消尽<已上諸文滅罪> 大悲経第二云、若三千大千世界満中、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、若有善男子善女人、若一劫若減一劫、以諸種々称意一切楽具、恭敬尊重、謙下供養、若復有人、於諸仏所、但一合掌、一称名、如是福徳、比前福徳、百分不及一、百千億分不及一、迦羅分不及一、何以故、以仏如来諸福田中為最無上、是故施仏、成大功 と。 遺日摩尼経に云く、
菩薩は、また数千巨億万劫、在愛欲の中にありて罪のために所覆はるといへども、もし仏の経を聞いて、一反だも善を念ぜば、罪即ち消え尽きん
と。<已上諸文は滅罪なり> 大悲経の第二に云く、
もし三千大千世界の中に満てらん、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を、もし善男子・善女人ありて、もしは一劫もしは減一劫もろもろもろの種々意に称へる一切の楽具を以て、恭敬し尊重して、謙下して供養せん。もしまた人ありて、諸仏の所に於て、一たびも合掌し、一たびも名を称せん。かくの如き福徳に、前の福徳を比べんに、百分にして一にも及ばず。百千億分にして一にも及ばず。迦羅分にして一にも及ばず。何を以ての故に、仏如来はもろもろの福田の中において最無上を以てなり。この故に仏に施したてまつるは、大功徳を成ずるなり。
<略抄、以満三千界辟支仏、校量亦尓> 普曜経偈云、一切衆生成縁覚、若有供養億数劫、飲食衣服床臥具、擣香雑香及名花、若有一心叉十指、専心自帰一如来、口自発言南無仏、是功徳福為最上、般舟経説念仏三昧偈云、仮使一切皆為仏、聖智清浄慧第一、皆於億劫過其数、講説一偈之功徳、至於泥洹誦詠福、無数億劫悉歎誦、不能究尽其功徳、於是三昧一偈事、一切仏国所有地、四方四隅及上下、満中珍宝以布施、用供養仏天中天 若有聞是三昧者、得其福祐過於彼、安諦諷誦説講者、引譬功徳不可喩<破一仏刹為塵、取一々塵、亦砕如一仏刹塵数、以此一塵、為一仏刹、若干仏刹、満中珍宝、供養諸仏、以之為比也、已上、生善>度諸仏境界経説 と。<略抄、満三千界に満てらん辟支仏を以て、校量すともまたしかり> 普曜経の偈に云く、
一切衆生の縁覚と成らんに もし有供養億数劫に 飲食と衣服と床臥具と 擣香と雑香と及び及名花とを供養することあらんとも もし一心に十指を叉へ 専心に自ら一の如来に帰して、口に自ら南無仏と発言することあらば、この功徳の福を最上となす
と般舟経の念仏三昧を説く偈に云く、
たとひ一切をして皆仏となし、聖智清浄にして慧第一たらしめん 皆億劫に於てその数を過ぐるまで、一偈を講説する功徳において、泥洹に至るまで福を誦詠し、無数億劫にわたり悉く歎誦とも その功徳を究め尽すことあたわず、この三昧の一偈の事に於てせるを、一切の仏国の所有の地 四方・四隅及び上下の 中に満てらん珍宝を以て布施し 用いて供養仏天中天に供養せんもしこの三昧を聞くことあらんものは その福祐を得ること彼に過ぎん 安諦に諷誦し説講せん者、譬へを引くとも功徳喩ふべからず
と。<一の仏刹を破して塵となし、一々の塵を取りて、また砕いて一の仏刹の塵の数の如くし、この一の塵を以て、一の仏刹となし、若干の仏刹の中に満てらん珍宝もて、供養諸仏に供養す。これを以て比となすなり。已上は生善なり>度諸仏境界経に説かく、
 若諸衆生、縁於如来、生諸行者、断無数劫地獄畜生餓鬼閻魔王生、若有衆生、一念作意、縁如来者、所得功徳、無有限極、不可称量、百千万億那由他諸大菩薩、悉得不可思議解脱定、不能計校知其辺際  
もしもろもろの衆生、如来を縁じて、もろもろの行を生ぜば、無数劫の地獄・畜生・餓鬼・閻魔王の生を断つ。もし衆生ありて、一念も作意して、如来を縁ずるものは、得る所の功徳、限極あることなく、称量すべからず。百千万億那由他のもろもろの大菩薩の、悉く不可思議解脱定を得んとも、計校してその辺際を知ることあたわず。
観仏経〔説〕、仏告阿難、我涅槃後、諸天世人、若称我名、及称南無諸仏、所獲福徳、無量無辺、況復繋念、念諸仏者、而不滅除諸障碍耶<已上、滅罪生善、其余如上正修念仏門> と。観仏経に〔説かく〕、
仏、告阿難に告げたまはく、「我涅槃して後、諸天・世人、もし我名を称し、及び称南無諸仏と称へんには、獲る所の福徳は、無量無辺ならん。いはんやまた念を繋けて、諸仏を念ぜん者、しかももろもろの障碍を滅除せざらんや」と。
と。<已上は、滅罪と生善なり。その余は上の正修念仏門の如し>
 第二、冥得護持者、護身呪経云、三十六部神王、有万億恒沙鬼神、為眷属、獲受三帰者、般舟経云、劫尽壊焼時、持是三昧菩薩者、正使堕是火中、火即為滅、譬如大�i水滅小火、仏告跋陀和、我所語無有異、是菩薩者、持是三昧、若帝王若賊、若火若水、若竜若蛇、若閲叉鬼神、若猛獣<乃至> 若壊人禅奪人念、設欲中是菩薩者、終不能中、仏言、如我所語無有異、除其宿命、其余無有能中者  第二に、冥得護持みょうとくごじとは、護身呪経に云く、
三十六部の神王に、万億恒沙の鬼神ありて眷属となり、三帰を受けたる者を獲る。
と。般舟経に云く、
「劫尽壊焼の時、この三昧を持てる菩薩は、正使たといこの火の中に堕つとも、火即ち為に滅せんこと、譬へば、如大きなる甖の水の滅小火を滅すが如くならん」と。仏、跋陀和に告げたまはく、「我が語る所は異あることなし。この菩薩この三昧を持たんには、もしは帝王もしは賊、もしは火、もしは、水、もしは竜、もしは蛇、もしは閲叉・鬼神、もしは猛獣<乃至>もしは もしは人の禅を壊り、人の念を奪うもの、たとひこの菩薩をやぶらんと欲すとも、終に中るあたわず」と。仏の言はく、「我が語る所の如きは異あることなし。その宿命をば除く。その余は、能く中る者あることなけん」と。
偈曰、鬼神乾陀共擁護、諸天人民亦如是、并阿須倫摩睺勒、行此三昧得如是、諸天悉共徳其頌、天人竜神甄陀羅、諸仏嗟歎令如願、諷誦説経為人故、国国相伐民荒乱、飢饉荐臻懐苦窮、終不於中夭其命、能誦此経化人者、勇猛降伏諸魔事、心無所畏毛不竪、其功徳行不可議、行此三昧得如是<十住婆沙引此等文已云、唯除業報必応受者> 十二仏名経偈云、若人持仏名、衆魔及波旬、行住坐臥処、不能得其便 と。偈に曰く、
鬼神・乾陀共に擁護し、諸天・人民もまたかくのごとくせん 并に阿須倫・摩睺勒も この三昧を行ぜばかくの如くなることを得ん 諸天悉く共にその徳をめ、天・人・竜・神・甄陀羅と 諸仏も嗟歎して願の如くならしめたまふ 経を諷誦し説いて経為人の為にするが故なり 国と国と相伐ちて民荒乱し、飢饉荐りに臻りて苦の窮りを懐くも、終にその命を中夭せず 能くこの経を誦して人を化すればなり 勇猛にもろもろの魔事を降伏し 心に畏るる所なく毛竪たず その功徳行は議るべからず この三昧を行ぜばかくの如くなることを得ん
と。<十住婆沙に、これらの文を引き已りて云く、「ただ業報の必ず応に受くべ者をば除く」と> 十二仏名経の偈に云く、
もし人仏の名を持たば、衆魔及び波旬も、行住坐臥の処に その便を得ることあたわず
と。
 第三、現身見仏者、文殊般若経下巻云、仏云、若善男子善女人、欲入一行三昧、応処空閑、捨諸乱意、不取相貎、繋心一仏、専称名字、随仏方所端身正向、能於一仏念々相続、即於念中、能見過去未来現在諸仏  第三、現身見仏げんしんけんぶつとは、文殊般若経の下巻に云く、
仏の云く、「もし善男子・善女人、一行三昧に入らんと欲せば、応に空閑に処して、もろもろの乱意を捨て、不取相貎を取らずして、心を一仏に繋け、専ら名字を称へて、仏の方所に随ひ身を端しくして正しく向ひ、能く一仏に於て念々に相続すべし。即ち念の中に於て、能く過去・未来・現在の諸仏を見たてまつらん
導禅師釈云、衆生障重、観難成就、是以大聖悲憐、直勧専称名字、般舟経云、前所不聞経巻、是菩薩持是三昧威神、夢中悉自得其経巻、各各悉見、悉聞経声、若昼日不得者、若夜於夢中、悉得見仏、仏告跋陀和、若一劫、若過一劫、我説是菩薩持是三昧者、説其功徳、不可尽竟、何況能求得是三昧者、又同経偈云、如阿弥陀国菩薩、見無央数百千仏、得是三昧菩薩然、当見無央百千仏<乃至> 其有誦受是三昧、已為面見百千仏、仮使最後大恐懼、持此三昧無畏所 と。導禅師、釈して云く、
衆生障重ければ、観成就し難し。ここを以て大聖悲憐したまひ、ただ専ら名字を称せよと勧めたまふなり。
と。般舟経に云く、
「前に聞かざりし所の経巻をば、この菩薩、三昧を持てる威神もて、夢の中に悉く自らその経巻を得、おのおの悉く見、悉く聞経の声を聞かん。もし昼日に得ずはもしは夜、夢の中に於て、悉く仏を見たてまつることを得ん」と。仏、跋陀和に告げたまわく、「もしは一劫、もしは一劫を過ぐるまで、我、この菩薩の三昧を持てる者を説きその功徳を説かんに、尽し竟るべからず。いかにいわんや、能くこの三昧を求め得たる者をや」と
と。また同じく経の偈に云く、
阿弥陀の国の菩薩の 見無央数百千の仏を見たてまつる如く この三昧を得たる菩薩も然り。当に見無央百千の仏を見たあてまつるべし<乃至> これこの三昧を誦受することあらば 已に面のあたり百千の仏を見たてまつるとなす たとひ最後の大恐懼にも 持この三昧を持たば畏るる所なけん
念仏三昧経第九偈云、若欲尽見一切仏、現在未来及十方、或復求転妙法輪、亦先修習此三昧、十二仏名経偈云、若人能至心、七日誦仏名、得於清浄眼、能見無量仏 念仏三昧経の第九の偈に云く、
もしは尽く見一切の仏を、現在・未来及び十方に見んと欲ひ 或はまた妙法輪を転ぜんことを求めんには またまずこの三昧を修習せよ
と。十二仏名経の偈に云く、
もし人能く心を至して、七日、仏の名を誦すれば 清浄の眼を得て 能く無量の仏を見たてまつらん
と。
 第四、当来勝利者、華厳偈云、若念如来少功徳、乃至一念心専仰、諸悪道怖悉永除 智眼於此能深悟<智眼天王頌> 般舟経偈云、其人終不堕地獄、離餓鬼道及畜生、世々所生識宿命、学是三昧得如是[p227]、観仏経云、若有衆生、一聞仏身如上功徳相好光明、億々千劫、不堕悪道、不生邪見雑穢之処、常得正見、勤修不息、但聞仏名、獲如是福、何況繋念観仏三昧  第四、当来とうらいの勝利とは、華厳の偈に云く、
もし如来の少かな功徳をも念じ、乃至一念の心だにも専仰したてまつらば、もろもろの悪道の怖悉く永く除こり  智眼はここに於いて能く深く悟る
と。<智眼天王のじゅなり> 般舟経の偈に云く、
その人終に地獄に堕ちず 餓鬼道及び畜生を離れ 世々生るる所にて宿命を識らん。この三昧を学ばばかくの如くなることを得ん。
と。観仏経に云く、
もし衆生ありて、一たびも仏身の上の如き功徳と相好と光明とを聞かば、億々千劫にも、悪道に堕ちず。不生邪見・雑穢の処 にも生ぜず 常に正見を得て、勤修すること息まざらん。ただ仏の名を聞くすら、かくの如き福を獲。いかにいはんや、念を観仏三昧に繋をや。
<已上> 〔安楽集云、〕大集経云、諸仏出世、有四種法度衆生、何等為四、一者口説十二部経、即是法施度衆生、二者諸仏如来、有無量光明相好、一切衆生、但能繋心観察、無不獲益、即是身業度衆生、三者有無量徳用神通道力種々神変、即是神通道力度衆生、四者諸仏如来、有無量名号、若惣若別、其有衆生、繋心称念、莫不除障獲益皆生仏前、即是名号度衆生 と。<已上> 〔安楽集に云く、〕
大集経に云く、「諸仏の出世に出でたまふに、四種の法ありて衆生を度したまふ。何等をか四となす。一には、口に十二部経を説く。即ちこれ法施をもて衆生を度したまふなり。二には、諸仏如来には無量光明・相好あり。一切の衆生、ただ能く心に繋けて観察すれば、益を獲ずといふことなし。即ちこれ身業もて衆生を度したまふなり、三には、無量の徳用・神通道力、種々の神変あり。即ちこれ、通道力もて衆生を度したまふなり。四には、諸仏如来には無量の名号あり。もしは惣、もしは別なり。それ衆生ありて、心を繋けて称念すれば、障を除き益を獲て、皆生仏前に生ぜずといふことなし。即ちこれ、名号もて衆生を度したまふなり」と。
云々、〔有云、〕正法念経有此文、云々、十二仏名経偈云、若人持仏名、不生怯弱心、智慧無諂曲、常在諸仏前、若人持仏名、七宝花中生、其花千億葉、威光相具足<已上諸文、永離悪趣、往生浄土>  観仏経云、若能至心、繋念在内、端坐正受、観仏色身、当知、是人心如仏心、与仏無異、雖在煩悩、不為諸悪之所覆蔽、於未来世、雨大法雨 と云々。〔あるが云く、〕正法念経にこの文ありと云々。十二仏名経の偈に云く、
若人持仏名、不生怯弱心、智慧無諂曲、常在諸仏前、若人持仏名、七宝花中生、其花千億葉、威光相具足
と。<已上の諸文、永く悪趣を離れて、浄土に往生するなり>  観仏経に云く、
もし能く心を至して、繋念内に在り、端坐正受して、仏の色身を観ぜば、当に知るべし。この人の心は仏の心の如くにして、仏と異なることなけん、煩悩ありといへども、もろもろの悪の為に覆蔽せられず、未来世に於て、大法雨を雨す。
大集念仏三昧経第七云、当知、如是念仏三昧、則為摠ti摂一切諸法、是故、非彼声聞縁覚二乗境界、若人暫聞説此法者、是人当来決定成仏、無有疑也、〔同経〕第九云、但能耳聞此三昧名、仮令不読不誦、不受不持、不修不習、不為他転、不為他説、亦復不能広分別釈、然彼諸善男子善女人、皆当次第成就阿耨菩提、同経偈云、若欲円満諸妙相、具足衆妙上荘厳、及求転生清浄家、必先受持此三昧 と。大集念仏三昧経の第七に云く、
当に知るべし、かくの如き念仏三昧は、則ち摠じて一切の諸法を摂すとなす。この故に、かの声聞・縁覚の二乗の境界にあらず。もし人、暫くもこの法を説くを聞かば、この人、当来に決定して仏と成ること、疑あることなきなり。
と。〔同じ経の〕第九に云く、
ただ能くこの三昧の名を聞かば、仮令読まず誦せず、受ず持たず、修せず習はず、他の為に転せず、他の為に説かず、亦また広く分別して釈することあたわざらんも、しかもかのもろもろの善男子・善女人は、皆当に、次第に阿耨菩提を成就すべし。
と。同じ経の偈に云く、
もしもろもろの妙相を円満して、もろもろの妙上の荘厳を具足せんと欲し、及び清の家に転生せんことを求めんには 必ずまづこの三昧を受持せよ
又有経言、若於仏福田、能殖少分善、初獲勝善趣、後必得涅槃、大般若経云、依敬憶仏、必出生死至涅槃、置此、乃至為供養仏、以一花散虚空、亦如是、又置此、若善男子善女人等、下至一称南無仏陀大慈悲者、是善男子善女人等、窮生死際、善根無尽、於天人中、恒受富楽、乃至最後、得般涅槃 と。またある経に言く、
もし仏の福田に於て 能く少分の善を殖ゑなば、初には勝善趣を獲 後には必ず涅槃を得ん。
と。大般若経に云く、
仏を敬ひ憶ふに依りて、必ず生死を出でて涅槃に至る。これをば置く。乃至、仏を供養せんがため、一花を以て散虚空に散ずるもまたかくの如し。またこれをば置く。もし善男子・善女人等、下は一たびも称[南無仏陀大慈悲者]と称するんに至るならば、この善男子・善女人等は、生死の際を窮むるまで善根尽くることなく、天人の中に於て、恒に富楽を受け、乃至、最後には般涅槃を得ん。
<略抄、大悲経第二同之> 宝積経云、若有衆生、於如来所、起微善者、尽於苦際、畢竟不壊、又云、若有菩薩、以勝意楽、能於我所、起於父想、彼人、当得入如来数如我無異、十二仏名経偈云、若人持仏名、世々所生処、身通遊虚空、能至無辺刹、面覩於諸仏、能問甚深義、<乃至> 為説微妙法、授彼菩提記 と。<略抄。大悲経の第二もこれに同じ> 宝積経に云く、
もし衆生ありて、如来の所に於て、微善を起こさば、苦際を尽くすまで畢竟して壊せず
と。また云く、
もし菩薩ありて、勝れたる意楽を以て、能くわが所に於て、父の想を起さば、かの人、当に如来の数に入ることを得て、わが如く異ることなかるべし
と。十二仏名経の偈に云く、
もし人仏の名を持たば、世々、所生の処に、身は通によりて虚空に遊び 能く無辺の刹に至り 面のあたり諸仏を覩たてまつりて、能く問甚深の義を問はんに<乃至> 為に微妙の法を説き 彼に菩提の記を授けたまはん
法華経偈云、若人散乱心、入於塔廟中、一称南無仏、皆已成仏道、大悲経第三、仏告阿難、若有衆生、聞仏名者、我説、是人畢定、当得入般涅槃、華厳経法幢菩薩偈云、若有諸衆生、未発菩提心、一得聞仏名、決定成菩提<已上諸文、得菩提> と。法華経の偈に云く、
もし人散乱の心もて、塔廟の中に入るも、一たび南無仏と称へんには 皆已に仏道を成ず
と。大悲経第三に、仏、阿難に告げたまわく、
もし衆生ありて 仏の名を聞かん者は、我説かく、この人は畢定して、当に般涅槃に入ることを得べし。
と。華厳経の法幢菩薩の偈に云く、
もしもろもろの衆生ありて、いま発菩提心を発さざらんも 一たび得聞仏の名を聞くことを得ば 決定して菩提を成ぜん
と。<已上の諸文、菩提を得るなり>
 但聞名号、勝利如是、況暫観念相好功徳、或復供養一花一香、況一生勤修功徳、終不虚、則知、値仏法聞仏号、非是少縁、是故華厳経真実慧菩薩偈云、寧受地獄苦、得聞諸仏名、不受無量楽、而不聞仏名<已上四門、惣明念諸仏之利益、其中、観仏経以釈迦為首、般舟経多以弥陀為首、理実倶通一切諸仏、念仏経通三世仏>  ただ名号を聞くすら、勝利かくの如し。いはんや暫くも相好・功徳を観念し、或はまた一花・一香を供養せんをや。いはんや一生に勤修する功徳は、終に虚しからず。則ち知る、仏法に値ひ仏号を聞くことは、これ少縁にあらずといふことを。この故に華厳経の真実慧菩薩の偈に云く、
むしろ地獄の苦を受くとも 、諸仏の名を聞くことを得よ 無量の楽を受くとも 而不聞仏の名を聞かざることなかれ
と。<已上の四門は、惣じて諸仏を念ずる利益を明かす。その中、観仏経は釈迦を以て首となし、般舟経は多く弥陀を以て首と為すも、理、実には倶に一切諸仏に通ず。念仏経は三世の仏に通ず>
問、観仏経云、是人心如仏心、与仏無異、又観経云、仏告阿難、諸仏〔如来〕是法界身、入一切衆生心想之中、是故汝等、心想仏時、是心即是三十二相八十随形好、是心作仏、是心是仏、諸仏正遍知海、従心想生  問ふ。観仏経に云く、
この人の心は仏の心の如くにして、仏と異なることなし
とまた観経に云く、
仏、阿難に告げたまわく、「諸仏〔如来〕は是法界身なり、入一切衆生の心想の中へ入りたまふ。この故に、汝等、心に仏を想ふ時は、この心即ちこれ三十二相・八十随形好なり。この心、作仏す。この心これ仏なり。諸仏正遍知海は、心想より生ず」と。
<已上> 此義云何、答、往生論智光疏釈此文云、当衆生心想仏時、仏身相皆顕現衆生心中、譬如水清即色像現、而水与像不一不異、故言仏相好身即是心想、是心作仏者、心能作仏、是心是仏者、心外無仏、譬如火従木出不得離木、以離木故即能焼木為火、焼木即是火 と。<已上> この義いかん。答ふ。往生論の智光の疏にこの文を釈して云く、
衆生の心に仏を想ふ時に当たりて、仏の身相、皆衆生の心中に顕現するなり。譬へば如水清ければ即ち色像現じて、水と像と一ならず異ならざるが如し。故に「言仏の相好身は即ちこれ心想」と言えるなり。「この心、作仏す」とは、心能く仏と作るなり。「この心これ仏なり」とは、心の外に仏なきなり。譬へば火は木より出て木を離るることを得ず、木を離れざるを以ての故に、即ち能く木を焼き火の為に焼けし木は、焼木即ちこれ火たるが如し。
<已上> 亦有余釈、学者更勘、私云、大集経日蔵分云、行者作是念、是等諸仏、無所従来、去無所至、唯我心作、於三界中、是身因縁、唯是心作、我随覚観、欲多見多、欲小見小、諸仏如来、即是我心、何以故、随心見故、心即我身、即是虚空、我因覚観、見無量仏、我以覚心、見仏知仏、心不見心、心不知心、我観法界、性無牢固、一切諸仏、皆従覚観因縁而生、是故、法性即是虚空、虚空之性、亦復是空 <已上> 此文意同観経、光師釈亦違 と。<已上> また余の釈あり、学者更に勘へよ、私に云く、大集経日蔵分に云く、
行者、この念を作さく、これ等の諸仏は、来る所なく、去る至る所なし。ただわが心の作のみ。三界の中に於て、この身は因縁にして、ただこれ心の作なり。我覚観の随に、多を欲すれば多を見、小を欲すれば小を見み、諸仏如来も即ちこれわが心なり。何を以っての故に。心の随に見たてまつるが故なり。心は即ちわが身にして、即ちこれ虚空なり。我、覚観に因りて、無量の仏を見たてまつる。我、覚心を以て、仏を見知仏を知るなり。、心は心を見ず、心は心を知らず、我、法界を観ずるに、性に牢固たることなし。一切の諸仏は、皆覚観の因縁より生ず、この故に、法性は即ちこれ虚空にして、虚空の性もまたこれ空なり。
と。<已上> この文の意は観経に同じ。光師の釈もまた違ふことなし。
 問、知心作仏、有何勝利、答、若観此理、能了三世一切仏法、乃至一聞、即得解脱三途苦難、如華厳経如来林菩薩偈云 若人欲求知、三世一切仏、応当如是観、心造諸如来 問ふ。心の、仏と作ることを知らば、何の勝れたる利かあるや。
 答ふ。もしこの理を観ずれば、能く三世一切の仏法を了り、乃至、一たびも聞かば、即ち得解脱三途の苦難を解脱することを得るなり。華厳経の如来林菩薩の偈に云ふが如し。
もし人 知三世一切の仏を知らんと欲求せば 応当にかくの如く観ずべし 心、もろもろの如来を造ると
華厳伝曰、文明元年、京師人、姓王、失其名、既無戒行、曾不修善、因患致死、被二人引、至地獄門前、見有一僧、云是地蔵菩薩、乃教王氏、誦此一偈、謂之曰、誦得此偈、能排地獄、王氏遂入、見閻羅王、王問此人、有功徳、答云、唯我受持一四句偈、具如上説、王遂放免、当誦此偈時、声所及処、受苦之人、皆得解脱、王氏三日始蘇、憶持此偈、向諸沙門説之、示験偈文、方知是華厳経第十二巻夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品、王氏自向空観寺僧定法師、説云然也<略抄> と。華厳伝に曰く、
文明元年、京師の人、姓は王、その名を失せり。既に戒行なく、曾って善を修せず、患に因りて死に到る。二人に引かれて、地獄の門前に至り、一の僧あるを見る。云く、「これ地蔵菩薩なり」と。乃ち王氏に教へて、この一偈をとなへしめ、これに謂ひて曰く、「この偈を誦へ得ば、能く地獄を排はん」と。王氏遂に入りて、閻羅王に見ゆ。王、この人に問ふ。「功徳ありや」と。答へて云く、「ただ我一の四句の偈を受持す」と。具さに上の如く説く。王、遂に放免す。この偈を」誦する時に当たりて、声の所及の処に、苦を受けし人、皆解脱を得たり。王氏、三日にして始めて蘇り、この偈を憶持して、向もろもろの沙門に向かひ、これを説く。偈の文を示験するに、方にこれ華厳経の第十二巻、夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品なることを知れり。王氏自ら、空観寺の僧定法師に向ひて、説ひて然なりと云へり。
と。<略抄>
 第五、念弥陀別益者、為令行者其心決定故、別明之<滅罪生善、冥得護念、現身見仏、将来勝利、如次> 観経説像想観云、作是観者、除無量億劫生死之罪、於現身中、得念仏三昧、又云、但想仏像、得無量福、況復観仏具足身相、阿弥陀思惟経云、若転輪王千万歳中、満四天下七宝、布施十方諸仏、不如苾蒭苾蒭尼優婆塞優婆夷等、一弾指頃坐禅、以平等心憐愍一切衆生、念阿弥陀仏功徳<已上、滅罪生善>称讃浄土経云、  第五に、弥陀を念ずる別益とは、行者をしてその心決定せしめんが為の故に、別にこれを明かすなり。<滅罪生善と冥得護念と現身見仏と将来の勝利とは、次の如し> 観経に像想観を説いて云く、
この観を作す者は、無量億劫の生死の罪を除き、現身の中に於て、念仏三昧を得ん。
と。また云く、
ただ仏の像を想ふすら、無量の福を得。いはんやまた、仏の具足せる身相を観ぜんをや。
と。阿弥陀思惟経に云く、
もし転輪王の千万歳の中、四天下に満てらん七宝もて、十方の諸仏に布施すとも、苾蒭ひっしゅ苾蒭尼ひっしゅに 優婆塞優婆夷等の一弾指の頃も坐禅し、平等の心を以て一切の衆生を憐愍して、念阿弥陀仏を念ぜん功徳にはしかず
と。<已上は、滅罪生善なり>称讃浄土経に云く、
 或善男子、或善女人、於無量寿極楽世界清浄仏土功徳荘厳、若已発願、若当発願、若今発願、必為如是住十方面、十恒河沙諸仏世尊之所摂受、如説行者、一切定於阿耨菩提、得不退転、一切定生無量寿仏極楽世界
 或は善男子、或は善女人、無量寿の極楽世界、清浄仏土の功徳荘厳に於て、もしは已に発願し、もしは当に発願すべく、もしは今発願せんに、必ずかくの如く、住十方面に住したまふ。十恒河沙ごうがしゃ諸仏世尊の摂受したまふ所となる。説の如く行ぜん者は、一切定んで阿耨菩提に於て、退転せざることを得、一切定んで無量寿仏の極楽世界に生まれん。
観経云、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨、又云、無量寿仏、化身無数、与観世音大勢至、常来至行人之所、十往生経、釈尊説阿弥陀仏功徳国土荘厳等已云、清信士清信女、読誦是経、流布是経、恭敬是経、不謗是経、信楽是経、供養是経、如是人輩、縁是信敬、我従今日、常使前廿五菩薩護持是人、常使是人、無病無悩、悪鬼悪神、亦不中害、亦不悩之、亦不得便 と。観経に云く、
光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず
と。また云く、
無量寿仏は、化身無数にして、観世音・大勢至と、常にこの行人の所に来至したまふ。
と。十往生経に、釈尊、阿弥陀仏の功徳、国土の荘厳等を説き已りて云く、
清信士・清信女、この経を読誦し、この経を流布し、この経を恭敬し、この経を謗しらず、この経を信楽し、この経を供養せん。かくの如き人の輩は、この信敬に縁りて、我、今日より、常に前の廿五菩薩をしてこの人を護持せしめ、常にこの人をして、病なく悩なく、悪鬼・悪神もまたやぶり害せず、またこれを悩まさず、また便も得ざらん。
<已上、乃至、睡寤行住、所至之処、皆悉安穏、云々> 唐土諸師云、廿五菩薩、擁護念阿弥陀仏願往生者、此亦不違彼経意也<廿五〔菩薩〕者、観世音菩薩、大勢至菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩、普賢菩薩、法自在菩薩、師子吼菩薩、陀羅尼菩薩、虚空蔵菩薩、徳蔵菩薩、宝蔵菩薩、金蔵菩薩、金剛蔵菩薩、光明王菩薩、山海慧菩薩、華厳王菩薩、衆宝王菩薩、月光王菩薩、日照王菩薩、三昧王菩薩、定自在王菩薩、大自在王菩薩、白象王菩薩、大威徳王菩薩、無辺身菩薩也> 双観経仏本願云 と。<已上。「乃至、睡寤・行住・所至の処、皆悉く安穏ならしめん」と云々> 唐土の諸師の云く、「廿五菩薩は、阿弥陀仏を念じて、往生を願ふ者を擁護したまふ」とこれまたかの経に意に違わざるなり。<廿五〔菩薩〕とは、観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・師子吼菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩也なり> 双観経のかの仏の本願に云く。
諸天人民、聞我名字、五体投地、稽首作礼、歓喜信楽、修菩薩行、諸天世人、莫不致敬、若不尓者、不取正覚<已上、冥得護持>大集経賢護分云、
諸天と人民、わが名字を聞いて、五体を地に投じ、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬を致さざることなけん。もししからずは、正覚を取らじ
と。<已上は冥得護持なり>大集経賢護分に云く、
善男子善女人、端坐繋念、専心想彼阿弥陀如来応供等正覚、如是相好、如是威儀、如是大衆、如是説法、如聞繋念、一心相続、次第不乱、或経一日、或復一夜、如是、或至七日七夜、如我所聞、具足念故、是人必覩阿弥陀如来応供等正覚、若於昼時、不能見者、若於夜分、或夢中、阿弥陀仏、必当現也
善男子・善女人、端坐繋念し、心を専らにしてかの阿弥陀如来・応供・等正覚を想ひ、かくの如き相好、かくの如き威儀、かくの如き大衆、かくの如き説法を、聞くが如き繋念し、一心に相続して、次第乱れず、或は一日を経、或はまた一夜せん。かくの如くして、或は七日七夜に至るまで、わが聞く所如く具足して念ずるが故に、この人は必ず阿弥陀如来・応供・等正覚を覩たてまつるなり。もし昼の時に於て、見たてまつること能はざる者は、もしは夜分に於て、或は夢の中に、阿弥陀仏は必ず当に現じたまふべし。
<已上> 観経云、見眉間白毫者、八万四千相好、自然当見、見無量寿仏者、即見十方無量諸仏、得見無量諸仏故、諸仏現前授記、是為遍観一切色相 と。<已上> 観経に云く、
眉間の白毫を見たてまつらば、八万四千の相好、自然に当に見ゆべし。無量寿仏を見たてまつる者は、即ち十方の無量諸仏を見たてまつる。得見無量の諸仏を見たてまつることを得るが故、諸仏は現前に授記したまふ。これを遍く一切の色相を観ずとなす。
<已上、見仏>  鼓音声王経云、十日十夜、六時専念、五体投地、礼敬彼仏、堅固正念、悉除散乱、若能念心、念々不絶、十日之中、必得阿弥陀仏、并見十方世界如来及所住処、唯除重障鈍根之人、於今少時、所不能覩、一切諸善、皆悉廻向、願得往生安楽世界、垂終之日、阿弥陀仏、与諸大衆、現其人前、安愈称善、是人即時、甚生慶悦、以是因縁、如其所願、即得往生、平等覚経云、仏言、要当斎戒一心、清浄昼夜常念、欲生無量清浄仏国、十日十夜不断絶、我皆慈愍之、悉令生無量清浄仏国 と。<已上は見仏なり>  鼓音声王経に云く、
十日十夜、六時に念を専らにし、五体を地に投げて、かの仏を礼敬し、堅固正念にして、悉く散乱を除き、もしは能く心に念じ、念々に絶えざらしめば、十日の中に、必ずかの阿弥陀仏を見たてまつることを得、并に十方世界の如来及び所住の処を見たてまつらん。ただ重障・鈍根の人を除く。今の少時に於て、覩るあたわざる所なり。一切の諸善を、皆悉く廻向して、安楽世界に往生することを得んと願わば、終に垂んとするの日、阿弥陀仏はもろもろの大衆とともに、その人の前に現れて、安愈し称善したまはん。この人、その時、甚だ慶悦を生ぜん。この因縁を以て、その所願の如く、即ち往生することを得ん。
と。平等覚経に云く、
仏の言はく、要ず当に斎戒し、一心清浄にして昼夜に常に念じ、無量清浄仏の国に生まれんと欲して、十日十夜、断絶せざるべし。我、皆これを慈愍して、悉く無量清浄仏の国に生まれしめん」 と。
<乃至一日一夜、亦如是、或可以此文置下諸行門中> 双観経偈云、 其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転 <乃至、一日一夜もまたかくの如し。或はこの文を以て下の諸行門の中に置くべし> 双観経の偈に云く、
その仏の本願力もて、名を聞いて往生せんと欲せば、皆悉くかの国に到りて、自ら不退転に到らん
と。
観経下品上生人、臨命終時、合掌叉手、称南無阿弥陀仏、称仏名故、除五十億劫生死之罪、従化仏後、生宝池中、同品中生人、臨命終時、地獄猛火、一時倶至、聞弥陀仏十力威徳光明神力戒定慧解脱知見、除八十億劫生死之罪、地獄猛火、化為清涼風、吹諸天花、花上皆有化仏菩薩、迎接此人、即得往生、同品下生人、臨命終時、苦逼不能念仏、随善友教、但至心令声不絶、具足十念、称南無無量寿仏、称仏名故、於念々中、除八十億劫生死之罪、如一念頃、即得往生、 観経の下品上生の人、命終らんとする時に臨んで、合掌し叉手して、南無阿弥陀仏と称せんに、仏の名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除き、化仏の後に従ひて、宝池の中に生まる。同じ品の中生の人は、命終らんとする時に臨んで、地獄の猛火、一時に倶に至らんに、聞弥陀仏の十力の威徳、光明の神力、戒・定・慧・解脱・知見を聞かば、除八十億劫生死之罪、地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天花を吹く。花の上には皆化仏・菩薩ありて、この人を迎接し、即ち往生することを得。同じ品の下生の人は、終わらんとする時に臨んで、苦に逼められて念仏することあたわず、善友の教の随に、ただ至心にして声をして不絶えざらしめ、十念を具足して、南無無量寿仏と称せん。称仏の名を称するが故に、念々の中に於て、八十億劫の生死の罪を除き、如一念の頃の如くに、即ち得往生することを得。
双観経彼仏本願云、諸仏世界、衆生之類、聞我名字、不得菩薩無生法忍諸深摠持者、不取正覚、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、不得即至不退転、不取正覚 、観経云、若念仏者、当知、此人是人中分陀利華、観世音菩薩大勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家<已上、将来勝利、余如上別時念仏門> 双観経のかの仏の本願に云く、
諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞いて、不得菩薩の無生法忍、もろもろの深摠持を得ずは、正覚を取らじ。他方国土のもろもろの菩薩衆、わが名字を聞いて、即ち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ
と。観経に云く、
もし念仏する者は、当に知るべし。この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となりたまふ。当に道場に座し諸仏の家に生まるべし。
と。<已上は、将来の勝利なり、余は上の別時念仏門の如し>
 第六、引例勧信者、観仏経第三、仏告諸釈子言、毘婆尸仏像法中、有一長者、名曰月徳、有五百子、同遇重病、父到子前、涕涙合掌、語諸子言、汝等邪見、不信正法、今無常刀、截切汝身、為何所怙、有仏世尊、名毘婆尸、汝可称仏、諸子聞已、敬其父故、称南無仏、父復告言、汝可称法、汝可称僧、未及三称、其子命終、以称仏故、生四天王所、天上寿尽、前邪見業、堕大地獄、獄卒羅刹、以熱鉄杈、刺壊其眼、受是苦時、憶父長者所教誨事、以念仏故、還生人中、尸棄仏出、但聞仏名、不覩仏形、乃至、迦葉仏時、亦聞其名、以聞六仏名因縁故、与我同生、是諸比丘、前世之時、以悪心故、謗仏正法、但為父故、称南無仏、生々常得聞諸仏名、乃至今世、値遇我出、諸障除故、成阿羅漢  第六に、引例勧信いんれいかんしんとは、観仏経の第三に、仏、もろもろの釈子に告げて言く、
毘婆尸仏びばしぶつの像法の中に、一の長者あり、名づけて月徳と曰へり。五百の子ありて、同じく重病に遇へり、父、子の前に到りて、涕涙合掌して、諸子に語りて言く、「汝等、邪見にして、正法を信ぜざりき。今無常の刀、汝が身を截り切るも、何の怙む 所とせん。仏世尊まします。毘婆尸と名づけたてまつる。汝、仏を称ふべし」と。諸子聞き已りて、その父を敬ふが故に、南無仏と称ふ。父また告げて言く 「汝、法を称ふべし、汝、僧を称ふべし」と。いまだ三たび称ふるに及ばずして、その子、命終り、仏を称ふるを以ての故に、四天王の所に生ぜり。、天上の寿尽きしとき、前の邪見の業もて、大地獄に堕ちたり。獄卒の羅刹は、熱鉄の杈を以てその眼を壊れり、この苦を受けし時、父の長者の所教誨せし所の事を憶ひて、念仏せしを以ての故に、また人中に生ぜり。尸棄仏の出でたまへるも、ただ仏の名を聞くのみにて、仏の形を覩ざりき。乃至、迦葉仏の時も、またその名を聞きしのみ。以聞六仏の名を聞きし因縁を以ての故に、我とともに同じく生ぜり。このもろもろの比丘、前世の時、悪心を以ての故に、仏の正法を謗りたるも、ただ父の為の故に、称南無仏と称へしを以て生々に常に得聞諸仏の名を聞くことを得、乃至、今世にわが出づるに値遇して、もろもろの障除こりしが故に、阿羅漢と成れり。
又云、燃燈仏末法之中、有一羅漢、其千弟子、聞羅漢説、心生瞋恨、随寿修短、各欲命終、羅漢教称南無諸仏、既称仏已、得生忉利天<乃至> 於未来世、当得作仏、号南無光照、第七巻、文殊自説於値遇礼拝過去宝威徳仏、尓時、釈迦文仏讃言、善哉善哉、文殊師利、乃於昔時、一礼仏故、得値爾許無数諸仏、何況未来我諸弟子、勤観仏者、仏勅阿難、汝持文殊師利語、遍告大衆及未来世衆生、若能礼拝者、若能念仏者、若能観仏者、当知、此人与文殊師利、等無有異、捨身他世、文殊師利等諸大菩薩、為其和上 と。また云く、
燃燈仏の末法の中に、一の羅漢あり。その千の弟子、聞羅漢の説を聞いて、心に瞋恨を生ぜり。、随寿の修短に随ひておのおの命終わらんとせしとき、羅漢、教えて南無諸仏と称へしむ。既に仏を称え已りて、得生忉利天に生ずることを得たり。<乃至> 未来世に於て、当に作仏することを得、南無光照と号づくべし
と。第七巻には、文殊自ら、説於値遇礼拝過去の宝威徳仏に値遇し礼拝せしことを説くに、
その時、釈迦文仏、讃へて言く、「善いかな善いかな。文殊師利は、乃ち昔の時に於て、一たび仏を礼せしが故に、得値爾許の無数の諸仏に値ふことを得たり。いかにいわんや、未来にわがももろの弟子の勤めて仏を観ぜん者をや」と。仏、阿難に勅したまわく、「汝、文殊師利の語を持ちて、遍く大衆及び未来世の衆生に告げよ。もしは能く礼拝せん者、若もしは能く念仏せん者、もしは能く仏を観ぜん者、当に知るべし、この人は文殊師利と等しくして異りあることなけん。捨身を他世に捨てなば、文殊師利等のもろもろの大菩薩、その和上とならん。
 又云、時十方仏、来跏趺坐、東方善徳仏、告大衆言、我念過去無量世時、有仏出世、号宝威徳上王、時有比丘、与九弟子、往詣仏塔、礼拝仏像、見一宝像厳顕可観、礼已諦視、説偈讃嘆、後時命終、悉生東方宝威徳上王仏国、大蓮花中結跏趺坐、忽然化生、従此已後、恒得値仏、於諸仏所、浄修梵行、得念仏三昧、得三昧已、仏為授記、於十方面、各得成仏、東方善徳仏者、則我身是、東南方無憂徳仏、南方栴檀徳仏、西南方宝施仏、西方無量明仏、西北方華徳仏、北方相徳仏、東北方三乗行仏、上方広衆徳仏、下方明徳仏、如是十仏、由過去礼塔観像一偈讃嘆、今於十方、各得成仏、説是語已、問訊釈迦文仏、既問訊已、放大光明、各還本国 と。また云く、
時に十方の仏、来りて跏趺坐かふざしたまえり。東方の善徳仏、大衆に告げて言く、「我、過去無量世の時を念ふに、仏の世に出でたまへるあり。宝威徳上王と号けたり。時に比丘あり、九弟子とともに、仏塔に往詣して、仏像を礼拝し、見一の宝像の厳顕にして観ずべきを見る。礼し已りて諦かに視、偈を説いて讃嘆せり。後の時命終りしに、悉く東方宝威徳上王仏の国に生まれ、大蓮花の中に結跏趺坐して、忽然として化生せり。これより已後、恒に得値仏に値ひたてまつることを得、諸仏の所に於て、浄く梵行を修し、得念仏三昧を得たり。得三昧を得已りしとき、仏為に授記したまひ、十方面に於ておのおの成仏することを得たり。東方の善徳仏とは、則ちわが身これなり。東南方の無憂徳仏、南方の栴檀徳仏、西南方の宝施仏、西方の無量明仏、西北方の華徳仏、北方の相徳仏、東北方の三乗行仏、上方の広衆徳仏、下方の明徳仏、かくの如き十仏は、由過去に塔を礼し像を観じ一偈もて讃嘆せしに由りて、今、十方に於て、おのおの成仏を得たり」と。この語を説き已りて、釈迦文仏を問訊したまへり。既に問訊し已りて、大光明を放ち、おのおの本国に還りたまえり
又云、四仏世尊、従空而下、坐釈迦仏床、讃言、善哉善哉、乃能為於未来之時濁悪衆生、説三世仏白毫光相、令諸衆生得滅罪咎、所以者何、念我昔曾、空王仏所、出家学道、時四比丘、共為同学、習仏正法、煩悩覆心、不能堅持仏法宝蔵、多不善業、当堕悪道、空中有声、語比丘言、空王如来、雖復涅槃、汝之所犯、謂無救者、汝等今可入塔観像、与仏在世、等無有異、我従空声入塔、観像眉間白毫、即作是念、如来在世光明色身、与此何異、仏大人相、願除我罪、作是語已、如大山崩、五体投地、懺悔諸罪、従是已後、八十億阿僧祇劫、不堕悪道、生々常見十方諸仏、於諸仏所、受持甚深念仏三昧、得三昧已、諸仏現前、授我記別、東方妙喜国阿閦仏、即第一比丘是、南方歓喜国宝相仏、即第二比丘是、西方極楽国無量寿仏、第三比丘是、北方蓮華荘厳国微妙声仏、第四比丘是、時四如来各申右手、摩阿難頂、告言、汝持仏語、広為未来諸衆生説、三説此已、各放光明、還帰本国 と。また云く、
四仏世尊は、空より下りて釈迦仏の床に坐し、讃へた言く、「善いかな善いかな。乃ち能く未来の時の濁悪の衆生の為に、三世の仏白毫の光相を説いて、令もろもろの衆生をして罪咎を滅することを得しめたまふ。所以はいかん、わが昔曾を念ふに、空王仏の所にて、出家して道を学べり。時に四の比丘あり。共に同学となりて、仏の正法を習ひしに、煩悩、心を覆ひ、堅く仏法の宝蔵を持つことあたわず。不善の業多くして、当に悪道に堕せんとす。空中声あり、語比丘に語りて言く、「空王如来はまた涅槃したまひ、汝の犯せし所を救う者なしと謂ふといへども、汝等、今入塔に入りて像を観たてまつるべし。仏の在世と等しくして異りあることなし」、我、従空の声に従ひて塔に入り、像の眉間の白毫を観て、即ちこの念を作せり、「如来在世の光明色身は、これとなんぞ異ならん。仏の大人相、願はくは、わが罪を除きたまへ」と。この語を作し已りて、大山の崩るるが如く、五体を地に投げて、もろもろの罪を懺悔せり。これより已後、八十億阿僧祇劫、悪道に堕せず、生々に常に見十方の諸仏を見たてまつり、諸仏の所に於て、甚深の念仏三昧を受持せり。三昧を得已りしとき、諸仏現前して、我に記別を授けたまえり。東方妙喜国の阿閦仏は、即ち第一の比丘これなり。、南方歓喜国の宝相仏は、即ち第二の比丘これなり。西方極楽国の無量寿仏は、第三の比丘これなり。北方蓮華荘厳国の微妙声仏は、第四の比丘これなり」と。時に、四如来、おのおの右の手を申べて、阿難の頂を摩で、告げて言はく、「汝、仏の語を持ちて、広く未来のもろもろの衆生の為に説け」と。三たびこれを説き已りて、おのおの放光明を放ち、本国に還帰したまへり。
 又云、財首菩薩白〔仏〕言、世尊、我念過去無量世時、有仏世尊、亦名釈迦牟尼、彼仏滅後有一王子、名曰金幢、憍慢邪見、不信正法、知識比丘、名定自在、告王子言、世有仏像、衆宝厳飾、可暫入塔観仏形像、時彼王子、随善友語、入塔観像、見像相好、白言比丘、仏像端厳、猶尚如此、況仏真身、比丘告言、汝今見像、不能礼者、当称南無仏、是時王子、合掌恭敬、称南無仏、還宮繋念、念塔中像、即於後夜、夢見仏像、見仏像故、心大歓喜、捨離邪見、帰依三宝、随寿命終、由前入塔称南無仏因縁功徳、値九百万億那由他仏、逮得甚深念仏三昧、三昧力故、諸仏現前、為其授記、従是已来、百万阿僧祇劫、不堕悪道、乃至今日、獲得甚深首楞厳三昧、尓時王子、今我財首是也 と。また云く、
財首菩薩〔仏に〕白して言さく、「世尊。我、過去無量世の時を念ふに、仏世尊おはしまして、また釈迦牟尼と名づく。かの仏の滅後に一の王子あり。名づけて金幢と曰へり。憍慢邪見にして、正法を信ぜず、知識の比丘あり、定自在と名づけしが、王子に告げて言く、「世に仏像あり、衆宝もて厳飾せり。暫く塔に入りて仏の形像を観たてまつるべし」と。時にかの王子、善友の語に随ひ、塔に入りて像を観たてまつり、像の相好を見て、比丘に白して言さく、「仏の像の端厳なること、なほかくの如し。いはんや仏の真身をや」と。、比丘告げて言く、「汝、今像を見たてまつれり。礼することあたわずは、当に南無仏と称すべし」と。この時王子合掌して恭敬して、南無仏と称へ、宮に還りて念を繋けて、塔中の像を念じたるに、即ち後夜に於て、夢に仏像を見たてまつる。仏像を見たてまつりしが故に、心大いに歓喜し、邪見を捨離して、三宝に帰依したてまつる。寿命の随に終りしも、前に塔に入りて称南無仏と称した因縁の功徳に由りて、九百万億那由他の仏に値ひ、甚深の念仏三昧を逮得せり。三昧力の故に、諸仏現前して、そが為に記を授けたり。これより已来、百万阿僧祇劫にわたり、悪道に堕せず、乃至、今日、甚深の首楞厳三昧を獲得せり、その時の王子は、今の我、財首これなり」と
又云、仏言、我与賢劫諸菩薩、曾於過去栴檀窟仏所、聞是諸仏色身変化観仏三昧海、以是因縁功徳力故、超越九百万億阿僧祇劫生死之罪、於此賢劫、次第成仏<乃至> 如是十方無量諸仏、皆由此法、成三菩提 と。また云く、
仏言はく、「我、賢劫のもろもろの菩薩とともに、曾て過去の栴檀窟仏の所に於て、聞この諸仏の色身・変化の観仏三昧海を聞けり。この因縁の功徳力を以ての故に、九百万億阿僧祇劫の生死の罪を超越して、この賢劫に於て、次第に成仏せり<乃至> かくの如く十方無量諸仏も皆この法に由りて、三菩提を成じたまへり」と。
 迦葉経云、昔過去久遠阿僧祇劫、有仏出世、号曰光明、入涅槃後、有一菩薩、名大精進、年始十六、婆羅門種、端正無比、有一比丘、於白畳上、画仏形像、持与精進、精進見像、心大歓喜、作如是言、如来形像、妙好乃尓、況復仏身、願我未来、亦得成就如是妙身、言已思念、我若在家、此身叵得、即啓父母、求哀出家、父母答言、我今年老、唯汝一子、汝若出家、我等当死、子白父母、若不聴我者、我従今日、不飲不食、不昇床座、亦不言説、作是誓已、一日不食、乃至六日、父母知識、八万四千諸婇女等、同時悲泣、礼大精進、尋聴出家、既得出家、持像入山、取草為座、在画像前、結跏趺坐、一心諦観、此画像不異如来、像者非覚非知、一切諸法、亦復如是、無相離相、体性空寂、作是観已、経於日夜、成就五通、具足四無量、得無碍弁、得普光三昧、具大光明、以浄天眼、見於東方阿僧祇仏、以浄天耳、聞仏所説、悉能聴受、満足七月、以智為食、一切諸天、散花供養、従山而出、来至村落、為人法説、二万衆生、発菩提心、無量阿僧祇人、住於声聞縁覚功徳、父母親眷、皆住不退無上菩提、仏告迦葉、昔大精進、今我身是、由此観像、今得成仏、若有人、能学如此観、未来必当成無上道 と。迦葉経に云く、
昔、過去久遠阿僧祇劫に、仏の世に出でたまへるあり。号して光明とへり、涅槃に入りたまひて後、一の菩薩あり、大精進と名づく。年始めて十六、婆羅門種にして、端正なること比ひなし。一の比丘ありて、白畳の上に於て、仏の形像を画き、持ちて精進に与ふ。精進、像を見て、心大いに歓喜し、かくの如き言を作さく、「如来の形像すら妙好なること、乃ちしかり。いはんやまた仏の身をや。願はくは、我も、未来にまたかくの如き妙なる身を成就することを得ん」と。言ひ已りて、思念すらく、「我もし家にあらば、この身は得ることかたからん」と。即ち父母に啓して、哀を求め、出家せんとせしに、父母、答えて言く、「我、今年老いて、ただ汝一子あるのみ。汝もし出家せば、我等当に死すべし」と。子、父母に白さく、「もし我を聴したまずは、我、今日より、飲ず食はず、床座に昇らず、また言説せず」と。この誓いを作し已り、一日食はずして、乃ち六日に至る。父母・知識、八万四千のもろもろお婇女等、同時に悲泣して、大精進を礼し、尋いで出家を聴せり。既にして出家することを得たれば、像を持ちて山に入り、草を取りて座となし、画像の前にありて、結跏趺坐し、一心に諦らかに観ずらく、「この画像は如来に異ならず。像は覚にあらず知にあらず、一切の諸法も、亦またかくの如し、相なく相を離れ、体性空寂なり」と。この観を作し已り、日夜を経て、五通を成就し、具足四無量を具足し、無碍弁を得、普光三昧を得て、大光明を具せり。浄天眼を以てして、東方の阿僧祇仏を見、浄天耳を以てして、仏の所説を聞き、悉く能く聴受せり。満足七月を満足するまで、以智を以て食となし、一切の諸天、花を散らして供養せり。山より出でて、村落に来至し、人の為に法を説くに、二万の衆生、菩提心を発し、無量阿僧祇の人、声聞・縁覚の功徳に住し、父母・親眷も皆、不退の無上菩提に住したり」と。
仏、迦葉に告げたまわく、「昔の大精進は、今の我が身これなり。この観像に由りて、今、成仏を得たり。もし人ありて、能くかくの如き観を学ばば、未来に必ず無上道を成ずべし」と。
 譬喩経第二云、昔有比丘、欲度其母、母已命過、便以道眼、天上人中、𤢌狩薜茘中求索、不了見之、観於泥黎、見母在中、懊惋悲哀、広求方便、欲脱其苦、時辺境有王、害父奪国、比丘、知此王命余有七日、受罪之地、与比丘母同在一処、夜安靖時、到王寝処、穿壁現半身、王怖抜刀斫頭、頭即落地、其処如故、斫之数反、化頭満地、比丘不動、王意乃解、知其非常、叩頭謝過、比丘言、莫恐莫怖、欲相度耳、汝害父奪国不耶、対曰、実尓、願見慈救、比丘曰、作大功徳、恐不相及、王当称南無仏、七日不絶、便得免罪、重告之曰、慎莫忘此法、即便飛去、王便叉手、一心称説南無仏、昼夜不懈、七日命終、魂神向泥黎門、称南無仏、泥黎中人、聞仏音声、皆一時言南無仏、泥黎即冷、比丘為説法、比丘母王、及泥黎中人、皆得度脱、後大精進、得須陀洹道  と。譬喩経の第二に云く、
昔、比丘あり。その母を度せんと欲せしに、母已に命過れり。便ち道眼を以て、天上・人中・𤢌狩・薜茘の中に 求索するに、了にこれを見ず。泥黎ないりを観るに、母の中にあるを見たり。懊惋し悲哀して、広く方便を求め、その苦を除かんと欲す。時に辺境に王あり。父を害して国を奪へり、比丘、知この王の命余すところ七日ありて、受罪を受くるの地は、比丘の母と同じく一処にありといふことを知り、夜の安靖なる時、王の寝処に到り、壁を穿ちて半身を現わせり。王、怖れて刀を抜いて頭を斫る。頭即ち地に落つるに、その処故の如し。これを斫ること数反、化の頭、地に満つれども、比丘は動かず。王の意乃ち解け、その非常なることを知り、頭を叩いて過を謝せり。比丘言く、「恐るることなかれ、怖るることなかれ。相度せんと欲せしのみ、汝、父を害して国を奪ひしやいなや」と。対へて曰く、「実にしかり。願はくは慈救せられよ」と。比丘曰く、「大功徳を作すとも、恐らくは相及ばざらん。王、当に南無仏と称すべし。七日絶えざれば、便ち得免罪を免るることを得ん」と。重ねてこれを告げて曰く、「慎しみてこの法を忘るることなかれ」と。即便ち飛び去りぬ。王便ち手を叉へて、一心に説南無仏と称説すること、昼夜懈らず、七日にして命終りぬ。魂神、泥黎の門に向かいて、南無仏と称せしに、泥黎の中の人、仏の音声を聞いて、皆一時に南無仏と言ひしかば、泥黎即ち冷めぬ。比丘、為に法を説き、比丘の母と王と、及び泥黎の中の人、皆度脱することを得、後に大いに精進して、須陀洹道を得たり。
<已上、諸文略抄>  優婆塞戒経云、善男子、我本往、堕邪見家、惑網自我蓋、我於尓時、名曰広利、妻名女、精進勇猛、度脱無量、十善化導、我於尓時、心生殺猟、貪嗜酒肉、懶惰懈怠、不能精進、妻時語我、止其猟殺、戒断酒肉、勤加精進、得脱地獄苦悩之患、上生天宮与一処、我於尓時、殺心不止、酒肉美味、不能割捨、精進之心、懶惰不前、天宮息意、地獄分受、我於尓時、居聚落内、近僧伽藍、数聞犍鐘、妻語我言、事々不能、聞犍鐘声、三弾指、一称仏、斂身自恭、莫生憍慢、若其夜半、此法莫廃、我即用之、無復捨失、経十二年、其妻命終、生忉利天、却後三年、我亦寿尽、経至断事、判我入罪、向地獄門、当入門時、聞鐘三声、我即住立、心生歓喜、愛楽不厭、如法三弾指、長声唱仏、声皆慈悲、梵音朗徹、主事聞已、心甚愧感、此真菩薩、云何錯判、即遣追還送、往天上、既往到已、五体投地、礼敬我妻白言、大師、幸義大恩、如見済抜、乃至、菩提不違教勅 と。<已上、諸文の略抄>  優婆塞戒経に云く、
善男子、我本往もとむかし、邪見の家に堕し、惑網自ら我を蓋へり。我、その時、名を広利と曰へり、妻は名女にして、精進勇猛にして、度脱せしむること無量、十善もて化導せり。我、その時に於て、心に殺猟を生じ、酒肉を貪嗜し、懶惰懈怠にして、精進することあたわず、妻、時に我に語るらく、「その猟殺を止め、戒しめて酒肉を断ち、勤めて精進を加へなんには、地獄の苦悩の患を脱れ、天宮に上生して一処を与にすることを得ん」と。我その時に於ても、殺心止ず、酒肉の美味は、割捨することあたわず、 精進の心は、懶惰にして前まざれば、天宮は意を息めて、地獄の分を受けたり。我その時に於て、聚落の内に居し、僧伽藍に近かりしかば、しばしば犍鐘を聞けり、妻、我に語りて言く、「事々あたはずは、犍鐘の声を聞くとき、三たび弾指して一たび仏を称へよ。身を斂めて自ら恭しみ、莫生憍慢を生ずることなかれ、もしそれ夜半なりとも、この法を廃することなかれ」と。我、即ちこれを用ひて、無また捨て失ふことなかりき。十二年を経て、その妻命終りて、忉利天に生れ、却きて後三年にして、我もまた寿尽きたり。断事に経、至りしに、我を判じて罪に入れ、向地獄の門に向かわしむ。入門に入らんとする時に当りて、鐘の三声を聞く。我即ち住立して、心の歓喜を生じ、愛楽して厭わず。法の如く三たび弾指して、長声に唱仏を唱へたり。声に皆慈悲ありて、梵音の朗かに徹る。主事聞き已りて、心甚だ愧じ感じて、「これ真の菩薩なり、いかんぞあやまちて判きしや」と。即ち遣追・還送して、天上に往かしむ。既に往き、到り已りて、五体を地に投げ、礼敬わが妻を礼敬して白して言さく、「大師、幸にして大恩をけて、如見済抜いまさいばつせらる。乃至、菩提まで教勅に違わじ」と。
<已上>  又震旦東晋已来、至于唐朝、念阿弥陀仏、往生浄土者、道俗男女合五十余人、出浄土論并瑞応伝<僧廿三人、尼六人、沙弥二人、在家男女合二十四人> 我朝往生者、亦有其数、具在慶氏日本往生記、何況朝市隠徳、山林逃名之者、独修独去、誰得知耶 と。<已上>  また震旦には東晋より已来、唐朝に至るまで、阿弥陀仏を念じて、浄土に往生せし者、道俗・男女、合せて五十余人ありて、浄土論并に瑞応伝に出でたり<僧廿三人、尼六人、沙弥二人、在家男女合せて二十四人> わが朝にも往生せる者、また数あり。具さには慶氏の日本往生記にあり。いかにいわんや、朝市にありて徳を隠し、山林に名を逃れたる者の、独り修して独り去る、誰か知ることを得んや。
問、下々品人、五百釈子、臨終同念、昇沈何別、答、群疑論会云、五百釈子、但依父教、一念仏、而不発菩提心求生浄土、慇懃慚愧、又彼不至心、復唯一念、不具十念故 問ふ。下々品の人と五百の釈子とは、臨終に同じく念じたるに、昇沈何ぞ別なるや。
答ふ。群疑論に会して云く、
五百の釈子ただ父の教に依りて、一たび仏を念じたるのみにて、菩提心を発して求生浄土に生まれんことを求めて、慇懃に慚愧せざりき。また彼は至心ならず、またただ一念にして、十念を具せざるが故なり
と。
<略抄>  第七、明悪趣利益者、大悲経第二云、若復有人、但心念仏、一生敬信、我説、是人、当得涅槃果尽涅槃際、阿難、且置人中念仏功徳、若有畜生、於仏世尊、能生念者、我亦説、其善根福報、当得涅槃 <略抄>  第七に、悪趣の利益を明かさば、大悲経の第二に云く、
もしまた人ありて、ただ心に仏を念じ、一たびも敬信を生ぜば、我説かく、「この人は、当に涅槃の果を得て、涅槃の際を尽くすべし」と。阿難。且く人中の念仏の功徳は置く。もし畜生ありて、仏世尊に於て、能く念を生ぜば、我また、「その善根の福報は、当に涅槃を得べし」と説く。
 問、何等是耶、答、同経第三、仏告阿難、過去有大商主、将諸商人、入於大海、其船卒為摩竭大魚、欲来呑噬、尓時商主及諸商人、心驚毛竪、各皆悲泣、嗚呼奇哉、彼閻浮提、如是可楽、如是希有、世間人身、如是難得、我今当与父母離別、姉妹婦児、親戚朋友別離、我更不見、亦不得見仏法衆僧、極大悲哭、尓時商主、偏袒右肩、右膝著地、住於船上、一心念仏、合掌礼拝、高声唱言、南無諸仏得大無畏者、大慈悲者、憐愍一切衆生者、如是三称時、諸商人亦復同時、如是三称、時摩竭魚、聞仏名号礼拝音声、生大愛敬、聞即閉口、尓時商主及諸商人、皆悉安穏、得免魚難、時摩竭魚、聞仏音声、心生喜楽、更不食噉�余諸衆生、因是命終、生得人中、於其仏所、聞法出家、近善知識、得阿羅漢、阿難、汝観彼魚、生畜道生、得聞仏名、〔聞仏名〕已、乃至涅槃、何況有人、得聞仏名、聴聞正法  問ふ。何等かこれなるや。
答ふ。同じ経の第三に、仏、阿難に告げたまわく、
過去に大商主ありき。もろもろの商人を将ゐて大海に入りしとき、その船卒に摩竭大魚の為に来りて呑み噬まれんとす。その時商主及びもろもろの商人、心驚き毛竪ちて、おのおの皆悲泣せり。「ああ奇しきかな、かの閻浮提の、かくの如く可楽にして、かくの如く希有なるは。世間の人身は、かくの如く得難きに、我いま当に父母と離別せんとす。姉妹・婦児・親戚・朋友とも別離して、我更に見ざらん。また不得見仏・法・衆僧をも見たてまつることを得ざらん」と。極めて大いに悲哭す。その時、商主、右の肩を偏袒し、右の膝を地に著けて、船の上に住り、一心に念仏し、合掌礼拝して、高声に唱へて、「諸仏の、大無畏を得たまへる者、大慈悲なる者、一切衆生を憐愍したまふ者に南無したてまつる」と言へり。かくの如く三たび称へし時、もろもろの商人も亦また同時にかくの如く三たび称へたり。時に摩竭魚、仏の名号と礼拝の音声を聞いて、大愛敬を生じ、聞いて即ち口を閉じたり。その時、商主及びもろもろの商人、皆悉く安穏に、魚の難を免れることを得たり。時に、摩竭魚、仏の音声を聞いて、心に喜楽を生じ、更に余のもろもろの衆生をも食噉せざりき。これに因りて命終りて、生得人中に生まるることを得。その仏の所に於て、法を聞き出家して、善知識に近づいて、阿羅漢を得たり。阿難、汝、かの魚を観よ、畜道生に生まれながら、得聞仏の名を聞くことを得、〔仏の名を聞き〕已りて、乃至、涅槃せり。いかにいわんや、人ありて、仏の名を聞くことを得、正法を聴聞せんをや。
<略抄> 又菩提処胎経八斎品云、竜子与金翅鳥、而説頌曰、殺是不善行、減寿命中夭、身如朝露虫、見光則命終、持戒奉仏語、得生長寿天、累劫積福徳、不堕畜生道、今身為竜身、戒徳清明行、雖堕六畜中、必望自済度、是時竜子、説此頌時、竜子竜女、心意開解、寿終之後、皆当生阿弥陀仏国<已上、八斎戒竜子也>  余趣信仏語、生浄土准之、地獄利益、如前国王因縁、并下麁心妙果、諸余利益、如下念仏功徳 と。<略抄> また菩提処胎経の八斎品に云く、竜の子、金翅鳥の与に、しかも頌を説いて曰く、
>殺はこれ不善の行なり 寿命を減じて中夭す 身は朝露の虫の如し 光を見れば則ち命終ゆ 戒を持ちて仏語を奉ずれば 長寿天に生まれることを得 累劫に福徳を積まば 不堕畜生道に堕せず 今身は竜の身たるも、戒徳清明に行じ 雖堕六畜の中に堕せりといへども、必ず自ら済度することを望まん 
と。この時、竜の子、この頌を説きし時、竜子・竜女、心意開解せり。寿終りし後には、皆当に阿弥陀仏国に生るべしと。<已上は、八斎戒の竜子なり>  余の趣も信仏語を信ぜんには、浄土に生るることこれに准ぜよ。地獄の利益は、前の国王の因縁、并に下の麁心の妙果の如し。もろもろの余の利益は、下の念仏の功徳の如し。
 大文第八、念仏証拠者、問、一切善業、各有利益、各得往生、何故唯勧念仏一門[p250]、答、今勧念仏、非是遮余種々妙行、只是男女貴賎、不簡行住坐臥、不論時処諸縁、修之不難、乃至、臨終願求往生、得其便宜、不如念仏、故木槵経云、難陀国波瑠璃王、遣使白仏言、唯願世尊、特垂慈愍、賜我要法、使我日夜易得修行、未来世中遠離衆苦、仏告言、大王、若欲滅煩悩障報障者、当貫木槵子一百八以常自随、若行若坐若臥、恒当至心無分散意、称仏陀達磨僧伽名、乃過一木槵子、如是若十若廿、若百若千、乃至百千万、若能満廿万遍、身心不乱、無諸諂曲者、捨命得生第三炎魔天、衣食自然、常受安楽、若復能満一百万遍者、当得除断百八結業、背生死流、趣涅槃道獲無上果 大文第八に、念仏の証拠とは、問ふ。一切の善業は、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故に勧念仏の一門のみを勧むるや。
答ふ。今、念仏を勧めるは、これ余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず。ただこれ男女・貴賎、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願ひ求むるに、その便宜を得ること、不如念仏にしかざればなり。故に木槵経に云く、
難陀国の波瑠璃王、遣使を遣わして仏に白して言さく、「ただ願わくは、世尊、特に慈愍を垂れて、我に要法を賜ひ、我をして日夜に修行すること得やすく、未来世の中にもろもろの苦を遠離せしめたまへ」と。仏、告げて言はく、「大王、もし煩悩障・報障を滅せんと欲はば、当に木槵子むくろじ一百八を貫いて、以て常に自ら随ふべし。もしは行、もしは坐、もしは臥に、恒に当に心を至して心を分散することなく、仏陀・達磨・僧伽の名を称へて、乃ち一の木槵子を過ぐるべし。かくの如くしてもしは十もしは廿、もしは百、もしは千、乃至、百千万せよ。もし能く廿万遍を満たすまで、身心乱れず、もろもろの諂曲なくは、命を捨てて後第三の炎魔天に生まることを得、衣食自然にして、常に受安楽を受けん。もしまた満一百万を満たさば、当に百八結業を除き断つことを得て、生死の流に背き、涅槃の道に趣いて無上の果を獲べし」と。
<略抄、感禅師亦同之> 況復諸聖教中、多以念仏、為往生業、其文甚多、略出十文 と。<略抄、感禅師もまたこれに同じ> いわんやまた、もろもろの聖教の中には、多く念仏を以て、往生の業となす。その文、甚だ多し。略して十文を出さん。
 一占察経下巻云、若人、欲生他方現在浄国者、応当随彼世界仏之名字専意誦念、一心不乱、如上観察者、決定得生彼仏浄国、善根増長、速成不退[p251]<如上観察者、観於地蔵菩薩法身及諸仏法身、与己自身、平等無二、不生不滅、常楽我浄、功徳円満、又観己身無常如幻厭等也>  一に、占察経の下巻に云く、
もし人、他方の現在の浄国に生まれんと欲せば、応当にかの世界の仏の名字に随ひ意を専らにして誦念すべし。一心不乱にして、上の如く観察せば、決定してかの仏の浄国に生るることを得、善根増長して、速かに不退を成ぜん。
と。<「上の如く観察すとは、地蔵菩薩の法身及び諸仏の法身と、己が自身と平等無二なれば、不生不滅・常楽我浄にして、功徳円満なりと観ずるなり。また己身こしんは無常にして幻の如く厭ふべし等と観ずるなり>
 二双観経三輩之業、雖有浅深、然通皆云、一向専念無量寿仏 二に、双観経の三輩の業には浅深ありといへども、しかも通じて皆、「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と云へり。
三四十八願中、於念仏門、別発一願云、乃至十念、若不生者、不取正覚 三に、四十八願の中に、念仏門に於て別して一願を発して云く、「乃至、十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」と。
四観経〔云〕、極重悪人無他方便、唯称念仏得生極楽、 四に観経に〔云く〕、
極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して極楽に生ずることを得。
五同経云、若欲至心生西方者、先当観一丈六像在池水上 と。五に、同じ経に云く、
もし至心に西方に生まれんと欲せん者は、先ず当に一丈六の像の、池水の上に在しますを観ずべし。
六同経云、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨 と。六に、同じ経に云く、
光明遍く十方世界を照らし、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。
七阿弥陀経云、不可以少善根福徳因縁得生彼国、若有善男子善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日<乃至>若七日、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆、現在其前、是人終時、心不顛倒、即得往生 と。七に、阿弥陀経に云く、
少善根・福徳の因縁を以てかの国に生まるることを得べからず、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持すること、もしは一日<乃至>もしは七日、一心にして乱れずは、その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とともに現じて、その前に在しまさん。この人終る時、心、顛倒せずして即ち往生することを得ん。
八般舟経云、阿弥陀仏言、欲来生我国者、常念我、数数当専念莫有休息、如是得来生我国と。八に、般舟経に云く、
阿弥陀仏の言はく、「わが国に来生せんと欲はば、常に我を念ぜよ、しばしば、当に専念して休息することなかるべし。かくの如くせばわが国に来生することを得ん」と。
九鼓音声経云、若有四衆、能正受持彼仏名号、以此功徳、臨欲終時、阿弥陀仏、即与大衆、往此人所、令其得見、見已尋生 と。九に、鼓音声経に云く、
もし四衆ありて、能く正しく受持かの仏の名号を受持せば、この功徳を以て、終らんとする時に臨んで、阿弥陀仏、即ち大衆とともにこの人の所に往き、令それをして見ることを得しめたまふに、見已りて尋いで生る。
十往生論、以観念彼仏依正功徳、為往生業<已上>  此中観経下々品、阿弥陀経、鼓音声経、但以念名号、為往生業、何況観念相好功徳耶 と。十に往生論には、かの仏の依正の功徳を観念することを以て、往生の業となす。<已上>  
この中、観経の下々品と阿弥陀経と鼓音声経とは、ただ名号を念ずるを以て往生の業となせり。いかにいわんや、相好・功徳を観念せんをや
 問、余行寧無勧信文耶、答、其余行法、因明彼法種々功能、其中自説往生之事、不如直弁往生之要、多云念仏、何況仏自既言当念我乎、亦不云仏光明摂取余行人、此等文分明、何重生疑耶  問ふ。余の行いづくんぞ勧信の文なからんや。
答ふ。その余の行法は、かの法の種々の功能を明せるに因みて、その中に自ら往生の事を説けるなり。直ちに往生の要を弁じて、多く仏を念ぜよと云えるが如きにはあらず。いかにいはんや、仏自ら既に「当に我を念ずべし」といひたまへるをや。また、仏の光明は余の行人を摂取すとは云わざるなり。これらの文、分明なり。なんぞ重ねて疑を生ぜんや。
 問、諸経所説、随機万品、何以管見、執一文耶、答、馬鳴菩薩大乗起信論云、復次衆生、初学是法、其心怯弱、懼畏信心難可成就、意欲退者、当知、如来有勝方便、摂護信心、謂以専心念仏因縁、随願得往生他方仏土、如修多羅説、若人専念西方阿弥陀仏、所作善業廻向、願求生彼世界、即得往生  問ふ。諸経の所説は、機に随ひて万品なり。 なんぞ管見を以て、一文を執するや。
答ふ。馬鳴菩薩の大乗起信論に云く、
また次に衆生の、初めてこの法を学ばんとするに、その心怯弱にして、信心の成就すること難きを懼畏して、意退せんと欲する者は、当に知るべし。如来に勝方便ありて、信心を摂護したまふことを。謂く、専心に念仏する因縁を以て、願の随に、他方の仏土に往生することを得るなり。修多羅に「もし人、専ら西方の阿弥陀仏を念じて、作る所の善業もて廻向して、かの世界に生まれんと願ひ求るれば、即ち往生することを得」と説くが如し
<已上> 明知、契経多以念仏、為往生要、若不尓者、四依菩薩、即非理尽 と。<已上> 明らかに知んぬ。契経には多く念仏を以て、往生の要とせることを。もししからずは、四依の菩薩は即ち理尽にはあらざらん
 大文第九、明往生諸行者、謂求極楽者、不必専念仏、須明余行任各楽欲、此亦有二、初別明諸経文、次惣結諸業  大文第九に、往生の諸行を明かさば、謂く、極楽を求むる者は必ずしも、念仏を専らにせず、すべからく余行を明しておのおのの楽欲に任すべし。これまた二あり。初に、別して諸経の文を明し、次に、惣じて諸業を結ぶ。
 第一、明諸経者、四十華厳経普賢願、三千仏名経、無字宝篋経、法華経等諸大乗経、随求、尊勝、無垢浄光、如意輪、阿嚕力迦、不空羂索、光明、阿弥陀、及竜樹所感往生浄土等呪、此等顕密諸大乗中、皆以受持読誦等、為往生極楽業也  第一に、諸経を明さば、四十華厳経の普賢願・三千仏名経・無字宝篋経・法華経等のもろもろの大乗経、随求・尊勝・無垢浄光・如意輪・阿嚕力迦・不空羂索・光明・阿弥陀、及び竜樹所感の往生浄土等の呪なり。これ等の顕密の諸大乗の中に、皆受持・読誦等を以て、往生極楽の業とするなり。
 大阿弥陀経云、当斎戒一心清浄、昼夜当念、欲生阿弥陀仏国、十日十夜不断絶、我皆慈愍之、悉令往生阿弥陀仏国、殊使不能尓、自思惟熟校計、欲度脱身者、不当絶念、去愛勿念家事、莫与婦女同床、自端正身心、断於愛欲、一心斎戒清浄、至意念生阿弥陀仏国、一日一夜不断絶者、寿終皆往生其国、在七宝浴池蓮花中化生  大阿弥陀経に云く、
当に斎戒し、一心清浄にして、昼夜念ずるに当りては、阿弥陀仏の国に生まれんと欲すべし。十日十夜、断絶せざれば、我皆これを慈愍して、悉く令往生阿弥陀仏の国に往生せしめん。殊にもししかすることあたはずは、自ら思惟してつらつら校計せよ。身を度脱せんと欲はん者は、不当に念を絶つべからず。愛を去り家事を念ふことなかれ、婦女と床を同じくすることなかれ。自ら身心を端正にして、愛欲を絶ち、一心に斎戒清浄にして、意を至して阿弥陀仏の国に生まれんと念じ、一日一夜、断絶せざれば、寿終りて皆その国に往生し、在七宝の浴池の蓮花の中に化生せん。
<此経、以持戒為首>  十往生〔阿〕弥陀仏国経云、吾今為汝説、有十往生、云何十往生、一者観身正念、常懐歓喜、以飲食衣服、施仏及僧、往生阿弥陀仏国、二者正念、世妙良薬、施一病比丘及以一切衆生、往生阿弥陀仏国、三者正念、不害一生命、慈悲於一切、往生阿弥陀仏国、四者正念、従師所受戒、浄慧修梵行、心常懐喜、往生阿弥陀仏国、五者正念、孝順於父母、敬重於師長、不懐憍慢心、往生阿弥陀仏国、六者正念、往詣於僧坊、恭敬於塔寺、聞法解一義、往生阿弥陀仏国、七者正念、一日一宿中、受持八戒斎、一日一宿中、受持不一破、往生阿弥陀仏国、八者正念、若能斎月斎日中、遠離於房舎、常詣於善師、往生阿弥陀仏国、九者正念、常能持浄戒、勤修楽禅定、護法不悪口、若能如是行、往生阿弥陀仏国、十者正念、若於無上道、不起誹謗心、精進持浄戒、復教無智者、流布是経法、教化無量衆〔生〕、如是諸人等、悉皆得往生阿弥陀仏国 と。<此経は、持戒を以て首となす>  十往生〔阿〕弥陀仏国経に云く、
吾今、汝が為に説かん。十の往生あり。いかんが十の往生なる。一には、身を観じ正念にして、常に歓喜を懐き、飲食・衣服を以て、仏及び僧に施さば、阿弥陀仏の国に往生す。二には、正念にして、世の妙なる良薬もて、一の病める比丘及び一切の衆生に施さば、阿弥陀仏の国に往生す。三には、正念にして、一の生命をも害せず、一切に慈悲せば、阿弥陀仏の国に往生す。四には、正念にして、師の所に従ひ、戒を受けて、浄慧もて梵行を修し、心に常に喜を懐かば、阿弥陀仏の国に往生す。五には、正念にして、父母に孝順し、師長を敬重して、憍慢の心を懐かずは、阿弥陀仏の国に往生す。六には、正念にして、僧坊に往詣し塔寺を恭敬して、法を聞いて一義をも解さば、阿弥陀仏の国に往生す。七には、正念にして、一日一宿の中、八戒斎を受持し、一日一宿の中、受持して一をも破らずは、阿弥陀仏の国に往生す。八には、正念にして、もし能く斎月・斎日の中、房舎を遠離し、常に善き師に詣づれば、阿弥陀仏の国に往生す。九には正念にして、常に能く浄戒を持ち、勤修して禅定を楽ひ、法を護りて悪口せず、もし能くかのごとく行ぜば、阿弥陀仏の国に往生せん。十には、正念にして、もし無上道に於て誹謗の心を起こさず、精進して浄戒を持ち、また無智の者を教へて、この経法を流布し、教化無量の衆〔生〕を教化せんに、かくの如きもろもろの人等は悉く皆、阿弥陀仏の国に往生することを得。
 弥勒問経云、如仏所説、願阿弥陀仏功徳利益、若能十念相続、不断念仏者、即得往生、当云何念、仏言、凡有十念、何等為十、一者於諸衆生、常生慈心、不毀其行、若毀其行、終不往生、二者於諸衆生、常起悲心、除残害意、三者発護法心、不惜身命、於一切法、不生誹謗、四者於忍辱中、生決定心、五者深心清浄、不染利養、六者発一切智心、日々常念、無有廃忘、七者於諸衆生、起尊重心、除我慢心、謙下言説、八者於世談話、不生味著、九者近於覚意、深起種々善根因縁、遠離憒閙散乱之心、十者正念仏観、除去諸想  と。弥勒問経に云く、
仏の説きたまふ所の如く、阿弥陀仏も功徳・利益を願ひ、もし能く十念相続して、不断に仏を念ずる者は、即ち往生することを得。当にいかんが念ずべきや。仏の言はく、「およそ十念あり。何等をか十とするや。一には、もろもろの衆生に於て、常に慈心を生じて、その行を毀らず。もしその行を毀らば、終に往生せず。二には、もろもろの衆生に於て、常に悲心を起して、残害の意を除く。三には、護法の心を発して身命を惜しまず。一切の法に於て誹謗を生ぜず、四には、忍辱の中に於て決定の心を生ず。五には、深心清浄にして、利養に染まず。六には一切智の心を発して日々に常に念じ、廃忘あることなし。七には、もろもろの衆生に於て、尊重の心を起し、我慢の心を除き、謙下して言説す。八には、世の談話に於て、味著を生ぜず。九には、覚意に近づき、深く種々の善根の因縁を起こして、憒閙・散乱の心を遠離す。十には、正念にして仏を観じ、もろもろの想を除去す」と。
積経第九十二、仏亦以此十心、答弥勒問、其中第六心云、求仏種智、於一切時、無忘失心、其余九種、文雖少異、意同前経、但結文云、若人、於此十種心中、随成一心、楽欲往生彼仏世界、若不得生、無有是処、云々、明非必具十為往生業也 と。積経の第九十二に、仏またこの十心を以て、弥勒の問に答へたまへり。その中の第六の心に云く、「仏の種智を求め、一切の時に於て、忘失する心なし」と。その余の九種は、文少しく異るといへども、意は前の経に同じ。ただ結の文に云く、「もし人、この十種の心の中に於て、一心をも成ずるに随せて、かの仏の世界に往生せんと楽欲せんに、もし生るることを得ずといはば、このことわりあることなけん」と云々。明らけし、必ずしも十を具して、往生の業となすにはあらざるなり。
 観経云、欲生彼国者、当修三福、一者孝養父母、奉持師長、慈心不殺、修十善業、二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀、三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者、如此三事、名為浄業、仏告韋提希、汝今知不、此三種業、過去未来現在、三世諸仏、浄業正因  観経に云く、
かの国に生まれんと欲する者は、当に三福をしゅうすべし。一には父母に孝養し父母、師長に奉持し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二には三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず、三には、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくの如き三事を名づけて浄業となす。仏、韋提希に告げたまわく、「汝、今知るやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在の三世の、諸仏の浄業の正因なり」と。
 又云、上品上生者、若有衆生、願生彼国者、発三種心、即便往生、何等為三、一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心、具三心者、必生彼国、復有三種衆生、当得往生、何等為三、一者慈心不殺、具諸戒行、二者読誦大乗方等経典、三者修行六念、廻向発願、願生彼国、具此功徳、一日乃至七日、即得往生、上品中生者、不必受持方等経典、善解義趣、於第一義、心不驚動、深信因果、不謗大乗、以此功徳、廻向願求生極楽国、上品下生者、亦信因果、不謗大乗、但発無上道心、以此功徳、廻向願求生極楽、中品上生者、若有衆生、受持五戒、持八戒斎、修行諸戒、不造五逆、無諸過患、以此善根、廻向願求、中品中生者、若有衆生、若一日一夜、受八戒斎、若一日一夜、持沙弥戒、〔若〕一日一夜、持具足戒、威儀無欠、以此功徳、廻向願求、中品下生者、若有善男子善女人、孝養父母、行世仁慈、下品上生者、或有衆生、作衆悪業、雖不誹謗方等経典、如此愚人、多造衆悪法、無有慚愧、臨終聞十二部経首題名字、及合掌、称南無阿弥陀仏、下品中生者、或有衆生、毀犯五戒八戒及具足戒、如此愚人、命欲終時、地獄衆火、一時倶至、遇善知識以大慈悲、為説阿弥陀仏十力威徳、広説彼仏光明神力、亦讃戒定慧解脱知見、此人聞已、除八十億劫生死之罪、下品下生者、或有衆生、作不善業、五逆十悪、具諸不善、如此悪人、以悪業故、応堕悪道、臨命終時、遇善知識、雖不能念仏、但至心令声不絶、具足十念、称南無無量寿仏、称仏名故、於念々中、除八十億劫生死之罪 と。また云く、
上品上生とは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ふ者は、三種の心を発して即ち往生す。何等をか三となす。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。三心を具する者は、必ずかの国に生る。また三種の衆生ありて、当に往生を得べし。何等をか三となす。一には慈心にして殺さず。もろもろの戒行を具す。二には大乗方等経典を読誦す。三には六念を修行し、廻向発願してかの国に生まれんと願ふ。この功徳を具すること、一日乃至七日にして、即ち往生を得。
上品中生とは、必ずしも方等経典を受持せざれども、善く義趣を解り、第一義に於て、心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。この功徳を以て、廻向して極楽国に生まれんと願求す。
上品下生とは、また因果を信じ、大乗を謗らず。ただ無上道心を発してこの功徳を以て、廻向して極楽に生まれんと願求す。
中品上生とは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、もろもろの戒を修行して五逆を造らず。もろもろの過患なからん。この善根を以て、廻向して願求す。中品中生とは、もし衆生ありて、もしくは一日一夜、八戒斎を受け、もしは一日一夜、沙弥戒を持ち、〔もしは〕一日一夜、具足戒を持ち、威儀欠くることなし。この功徳を以て、廻向して願求す。
中品下生とは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ふ。
下品上生とは、あるいは衆生ありて、作もろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せずといへども、かくの如き愚人、多く造もろもろの悪法を造りて慚愧あることなけん。臨終に十二部経の首題の名字を聞き、及び合掌して南無阿弥陀仏と称ふ。
下品中生とは、或は衆生ありて、五戒・八戒及び具足戒を毀り犯さん。かくの如き愚人、命終らんとする時、地獄の衆火、一時に倶に至らん。遇善知識の大慈悲を以て、為に阿弥陀の十力の威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・知見を讃ふるに遇はん。この人聞き已りて、八十億劫の生死の罪を除く。下品下生とは、或は衆生ありて、不善業を作り、五逆・十悪、もろもろの不善を具せん。かくの如き愚人、悪業を以ての故に、応に悪道に堕すべし。命終の時に臨みて、善知識に遇ひ、仏を念ずることあたはずといえども、ただ至心にして声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無無量寿仏と称えん。、称仏の名を称ふるが故に、念々の中に於て、八十億劫の生死之の罪を除く。
 双観経三輩業、亦不出此、又観経、以十六観、為往生因、宝積経、説仏前蓮華化生有四因縁偈云、花香散仏及支提、不害於他并造像、於大菩提深信解、得処蓮華生仏前<已上> 余不繁出 と。双観経の三輩の業もまたこれを出でず。また観経には、十六観を以て、為往生の因となせり。宝積経には、説仏前の蓮華に化生するに、四の因縁あることを説く。偈に云く、
花香をば仏及び支提に散ずると 他を害せざると 并に像を造ると 大菩提に於て深く信解するとは 蓮華に処して仏前に生まれることを得ん
と。<已上> 余は、繁く出さず。
第二、惣結諸業者、慧遠法師、出浄土因要有四、一修観往生、如十六観、二修業往生、如三福業、三修心往生、至誠等三心、四帰向往生、聞浄土事、帰向称念讃歎等也 第二に、惣じて諸業を結ぶとは、慧遠法師の、出浄土の因要を出せるに四あり。
一には修観を修して往生す。十六観の如し。二には、業を修して往生す。三福業の如し。三には心を修して往生す。至誠等の三心なり。四には、帰向して往生す。浄土の事を聞いて帰向し、称念し讃歎する等なり。
と。
 今私云、諸経行業、惣而言之、不出梵網戒品、別而論之、不出六度、細明其相、有其十三、一者財法等施、二者三帰五戒八戒十戒等、多少戒行、三者忍辱、四精進、五禅定、六般若<信第一義等是也> 七発菩提心、八修行六念<念仏法僧施戒天、謂之六念、十六想観亦不出之> 九読誦大乗、十守護仏法、十一孝順父母、奉事師長、十二不生 憍慢、十三不染利養也  今、私に云く、諸経の行業は、惣じてこれを言はば、梵網の戒品を出でず、、別してこれを論ぜば、六度を出でざるも、細しくその相を明かさば、それ十三あり。一には財・法等の施、二には三帰・五戒・八戒・十戒等の多少の戒行、三には忍辱、四には精進、五には禅定、六には般若<信第一義を信ずる等、これなり> 七には菩提心を発す。八には六念を修行す<仏・法・僧・施・戒・天を念ずるを、謂これを六念と謂う。十六想観もまたこれを出ず> 九には大乗を読誦す、十には守護仏法を守護す、十一には父母に孝順し、師長に奉事す、十二には 憍慢を生ぜず、十三には利養に染まざるなり。
 大集月蔵分偈云、如樹菓繁速自害、竹蘆結実亦如是、如騾懐妊喪自身、無智求利亦復然、若有比丘得供養、楽求利養堅著者、於世更無如此悪、故令不得解脱道、如是貪求利養者、既得道已還復失 大集月蔵分の偈に云く
樹の菓繁るときは速かに自ら害るるが如く、竹・蘆の実を結ぶもまたかくの如し、騾の懐妊せば自ら身を喪うが如く、無智にして利を求むるもまたしかり もし比丘ありて供養を得、楽求利養を楽ひ求めて堅く著せば、世に於て更にかくの如き悪なし。故に解脱の道を得ざらしむ かくの如く利養を貪求する者は 既に道うぃ得已らんもまたまた失はん
又仏蔵経迦葉仏記云、釈迦牟尼仏、多受供養故、法当疾滅、云々、如来尚尓、何況凡夫、大象出窓、遂為一尾所碍、行人出家、遂為名利所縛、則知、出離最後之怨、莫大名利者也、但浄名大士、身在家心出家、薬王本事、避塵寰居雪山、今世行人、亦応如是、自料根性、而進止之、若不能制其心、猶須避於其地、麻中之蓬、屠辺之厩、好悪由何乎<可見仏蔵経知是非之> と。また仏蔵経に迦葉仏の記して云く、と云々。如来にしてまほしかり。いかにいわんや凡夫をや。大象の窓を出るに、遂に一尾の為に碍へられ、行人の出家を出ずるに、遂に名利の為に縛らると。則ち知んぬ、出離の最後の怨は、名利より大なるものなきことを。ただ浄名大士は、身は家にあれども心は家を出で、薬王の本事は、塵寰を避けて雪山に居めり。今の世の行人もまた応にかくの如くなるべし。自ら根性を料りて、これに進止せよ。もしその心を制することあたわずは、なほすべからくその地を避くべし。麻中の蓬もちゅうのよもぎ屠辺の厩とへんのきざや、好悪いづれにか由るや。<仏蔵経を見て是非を知るべきなり>
 大文第十、問答料簡者、略有十事、一極楽依正、二往生階位、三往生多少、四尋常念相、五臨終念相、六麁心妙果、七諸行勝劣、八信毀因縁、九助道資縁、十助道人法 大文第十に、問答料簡とは、略して十事あり。一には極楽の依正、二には往生の階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、六には麁心の妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、十には助道人法なり。
 第一、極楽依正者、問、阿弥陀仏極楽浄土、是何身何土耶、答、天台云、応身仏同居土、遠法師云、是応身応土、綽法師云、是報仏報土、古旧等相伝皆云、化土化身、此為大失、依大乗同性経云、浄土中成仏者、悉是報身、穢土中成仏者、悉是化身、又彼経云、阿弥陀如来、蓮華開敷星王如来、竜主如来、宝徳如来等、諸如来清浄仏刹、現得道者、当得道者、如是一切、皆是報身仏也、何者如来化身、由如今日踊歩健如来魔恐怖如来等<已上安楽集> 第一に、極楽の依正とは、問ふ、阿弥陀仏の極楽浄土は、これいかなる身、いかなる土なるや。
答ふ、天台の云く、
応身の仏、同居の土なり
と。遠法師の云く、
これ応身・応土なり
、と。綽法師の云く、
これ報仏にして報土なり。古旧等、相伝へて、皆「化土・化身なり」と云えるは、これ大いなる失となす。大乗同性経に依るに、云く、「浄土の中の成仏は、悉くこれ報身なり。穢土の中の成仏は、悉くこれ化身なり」と。またかの経にく云、「阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来等のもろもろの如来の清浄仏刹にありて、現に道を得し者、当に道を得べき者、かくの如き一切は、皆これ報身の仏なり。何者か如来の化身なる。由し今日の踊歩健ゆぶけん如来・魔恐怖まくふ如来等の如し」と。
と。<已上、安楽集>
 問、彼仏成道、為已久如[p262]、答、諸経多云十劫、大阿弥陀経云十小劫、平等覚経云十八劫、称讃浄土経云十大劫、邪正難知、但双観経璟興師疏、会平等経云、十八劫者、其小字、闕其中点矣  問ふ。かの仏の成道したまひて、已に久しとせんや。
答ふ。諸経には多く十劫と云ひ、大阿弥陀経には「十小劫」と云ひ、平等覚経には「十八劫」と云ひ、称讃浄土経には「十大劫」と云ふ。邪正知り難し。ただし双観経の璟興師の疏には、平等経を会して云く、「十八劫とは、それ小の字の、その中の点を闕きしならん」と。
 問、未来寿幾何、答、小経云、無量無辺阿僧祇劫、観音授記経云、阿弥陀仏寿命、無量百千億劫、当有終極、仏涅槃後、正法住世、等仏寿命、善男子、阿弥陀仏正法滅後、過中夜分、明相出時、観世音菩薩、於菩提樹下、成等正覚、号普光功徳山王如来、其仏国土、無有声聞縁覚之名、其仏国土、号衆宝普集荘厳、普光功徳如来涅槃、正法滅後、大勢至菩薩、即於其国成仏、号善住功徳宝王如来、国土光明寿命、乃至法住、等無有異  問ふ。未来の寿はいくばくぞや。
答ふ。小経に云く、
無量無辺阿僧祇劫なり
と。観音授記経に云く、
阿弥陀仏の寿命は、無量百千億劫にして、当に終極あるべし。仏涅槃の後、正法の世に住まること、仏の寿命に等しからん。善男子、阿弥陀仏の正法滅して後、中夜分を過ぎて、明相出づる時、観世音菩薩、菩提樹の下に於て、等正覚を成じ、普光功徳山王如来と号けん。その仏の国土には、声聞・縁覚の名あることなし。その仏の国土をば、衆宝普集荘厳と号けん。普光功徳如来の涅槃したまひ、正法の滅して後、大勢至菩薩、即ちその国に於て成仏し、善住功徳宝王如来と号けん。国土・光明・寿命、乃至、法の住まること、等しくして異りあることなけん。
 問、同性経云報身、授記経云入滅、二経相違、諸師何会、答、綽禅師、会授記経云、此是報身、現穏没相、非滅度也、迦才会同性経云、浄土中成仏、判為報者、是受用事身、非実報身也  問ふ。同性経には「報身」と云ひ、授記経には「入滅」と云ふ。二経の相違、諸師いかんが会するや。
答ふ。綽禅師、授記経を会して云く、
これはこれ報身の、穏没の相を現わしたまふにして、滅度には非ざるなり。
と。迦才同性経を会して云く、
浄土の中の成仏を判じて報となすは、これ受用の事身にして、実の報身にはあらざるなり。
 問、何者為正耶、答、迦才云、衆生起行、既有千殊、往生見土、亦有万別也、若作此解者、諸経論中、或判為報、或判為化、皆無妨難也、但知諸仏修行具感報化二土也、如摂論加行感化正体感報、若報若化、皆欲成就衆生、此則土不虚設、行不空修、但信仏語、依経専念、即得往生、亦不須図度報之与化也<已上> 此釈善矣、須専称念、勿労分別 問ふ。いづれを正とするや。
答ふ。迦才の云く、
衆生の起行に、既に千殊あれば、往生して土を見るも、また万別あるなり。もしこの解を作さば、もろもろの経論の中に、或は判じて報となし、或は判じて化となすこと、皆妨難なきなり。ただし知諸仏の修行は具に報・化の二土を感ずることを知るべし。摂論に加行は化を感じ正体は報を感ず」といえるが如し。もしは報もしは化、皆衆生は成就せんと欲するなり。これ則ち土は虚しく設けず、行は空しく修せざれば、ただ仏語を信じて、経に依りて専ら念ずれば、即ち往生することを得。またすべからく報と化とを図度すべからざるなり。
と。<已上> この釈、善し。すべからく専ら称念すべし。労はしく分別することなかれ。
 問、彼仏相好、何以不同[p264]、答、観仏経説諸仏相好云、同人相故、説三十二、勝諸天故、説八十好、為諸菩薩、説八万四千諸妙相好<已上> 彼仏准之  問ふ。かの仏の相好、何を以てか同じからざる。答ふ。観仏経に説諸仏の相好を説いて云く、
人の相に同ずるが故に、三十二と説き、諸天に勝るが故に、八十好と説く、もろもろの菩薩の為には、八万四千のもろもろの妙相好と説く
と。<已上> かの仏もこれに准ぜよ
 問、双観経云、彼仏道樹、高四百万里、宝積経云、道樹高十六億由旬、十往生経云、道樹高四十万由旬、樹下師子座、高五百由旬、観経云、仏身量、六十万億那由他恒河沙由旬、云々、樹座仏身、何不相称、答、異解不同、或釈、仏境界大小不相碍、或釈、寄応仏説樹量、寄真仏説身量、又有多釈、不可具述  問ふ。双観経に云く、
かの仏の道樹は、高さ四百万里なり
と。宝積経に云く、
道樹の高さ十六億由旬なり。
と。十往生経に云く、
道樹の高さ四十万由旬にして、樹下に師子座あり。高さ五百由旬なり。
と。観経に云く、
仏の身量は、六十万億那由他恒河沙由旬なり
と云々。樹・座と仏身と、何ぞ相称はざるや。
答ふ。異解不同なり。或は釈すらく、「仏の境界は大小不相碍へず」と。或は釈すらく、「応仏に寄せて樹量を説き、真仏に寄せて身量を説く」と。また多くの釈あり。具さに述ぶべからず。
 問、華厳経云、娑婆世界一劫、為極楽国一日一夜、等、云々、由此当知、上品中生、逕宿花開、当此間半劫、乃至、下々生十二劫、当此間恒沙塵数劫、何名極楽  問ふ。華厳経に云く、
娑婆世界の一劫を、極楽国の一日一夜となす、等。
と云々、これに由りて当に知るべし、上品中生の、宿を逕て花開くは、この間の半劫に当り、乃至、下々生の十二劫は、この間の恒沙塵数劫に当たれり。なんぞ極楽と名づけん。
答、設経恒劫、蓮花不開、既無微苦、豈非極楽、如双観経云、其胎生者、所処宮殿、或百由旬、或五百由旬、各於麁中、受諸快楽、如忉利天<已上> 有師云、胎生是中品下品、有師云、九品所不摂、雖有異説、快楽不別、何況判彼九品所逕日時、諸師不同、懐感智憬等諸師、許彼国土日夜劫数、誠当所責、有師云、仏以此土日夜説之、令衆生知云々、今謂後釈無失、且以四例助成 答ふ。たとひ恒劫を経るまで蓮花開かざらんも、既に微苦なし。あに極楽にあらざらん。双観経に云ふが如し。
その胎生の者の処する所の宮殿、或百由旬、或は五百由旬にして、おのおのその中に於て、もろもろの快楽を受けること、忉利天の如し
と。<已上> ある師の云く、
胎生はこれ中品と下品となり。
と。ある師の云く、
九品には摂せざる所なり
と。異説ありといへども、快楽は別ならず。いかにいはんや、かの九品に逕る所の日時を判ずること、諸師不同なるをや。懐感・智憬等の諸師、かの国土の日夜を劫数と許すは、誠に責むる所に当たれり。ある師の云く、
仏はこの土の日夜を以て、これを説いて、衆生をして知らしめたまふなり。
と云々。今謂く、後の釈、失なし。且く四例を以て助成せん。
一者彼仏身量、若干由旬、不以彼仏指分畳為彼由旬也、若不尓者、応似如須弥山長大之人以一毛端為其指節、故知、不以仏指量説仏身長短、何必以浄土時剋、説花開遅速耶 一には、「かの仏の身量、若干由旬」といふは、かの仏の指分を以て畳ねての由旬となせるにはあらず。もししからずは、応に似如須弥山の如き長大の人、一の毛端を以てその指節とするに似たるべし。故に知んぬ、仏の指の量を以て仏の身の長短を説きしにはあらざることを、何んぞ必ずしも浄土の時剋を以て、説花の開く遅速を説かんや。
二者如尊勝陀羅尼経説、忉利天上、善住天子、聞空声告、汝当七日死、時天帝釈、承仏教勅、令彼天子七日勤修、過七日後、寿命得延<取意> 此是人中日夜而説、若拠天上七日者、当於人中七百歳、不応仏世八十年中決了其事、九品日夜、亦応同之 二には、尊勝陀羅尼経に説くが如し。
忉利天上の善住天子、空の声の告ぐるを聞くに、「汝、当に七日にして死すべし」と。時に天帝釈、承仏の教勅を承けて、令かの天子をして七日を過ぎて後、命得延ぶることを得たり<取意> と。これはこれ人中の日夜もて説けるなり。もし天上の七日に拠らば、人中の七百歳に当たり、仏世の八十年の中にて、そのことを決了すべからず、九品の日夜またこれに同じかるべし。
三者法護所訳経云、胎生之人、過五百歳、得見於仏、平等覚経云、於蓮華中化生、在城中、於是間五百歳、不能得出<取意> 憬興等師、以此文、証此方五百歳也、今云、彼胎生歳数、既依此間説、九品時剋、有何別義、不同彼耶 三には、法護所訳の経に云く、
胎生の人は、五百歳を過ぎて、得見於仏を見たてまつることを得。
と平等覚経に云く、
蓮華の中に化生して、城の中にあり。この間の五百歳に於て、出づること得るあたわず。
と。<取意> 憬興等の師は、この文を以て、この方の五百歳也と証せり。今云く、かの胎生の歳数、既にこの間に依りて説けりとせば、九品の時剋、何の別義ありてか、彼に同ぜらんや。
四者若拠彼界、説九品者、上品中生一宿、上品下生一日夜、即当此界半劫一劫、若許尓者、胎生疑心者、尚逕娑婆五百歳、而速得見仏、上品信行者、豈過半劫一劫、而遅開蓮華耶、有此理故、後釈無失 四には、もしかの界に依りて九品を説けりとせば、上品中生の一宿、上品下生の一日夜は、即ちこの界の半劫と一劫とに当たらん。もししかりと許せば、胎生の疑心はなほ娑婆の五百歳を逕て、しかも速やかに仏を見たてまつることを得んに、上品の信行者、あに過半劫・一劫を過ぎて、しかも遅く蓮華を開かんや。この理あるが故に、後の釈は失なし。
 問、若以此界日夜時剋、説彼相者、彼上々品、生彼国已、不応即悟無生法忍、所以然者、此界少時修行為勝、彼国多時善根為劣、既尓、上々品人、於此世界、一日至七日、具足三福業、尚不能証無生法忍、云何生彼、聞法即悟、故知、経彼国土長遠時剋、悟無生忍、然約彼名即悟、望此即億千歳、或可、上々人、必是方便後心行円満者、若不尓者、諸文桙楯]、答、未知、彼国多善劣、此界少善勝  問ふ。もしこの界の日夜の時剋を以て、かの相を説けりとせば、かの上々品は、かの国に生まれ已りて、応に即に無生法忍を悟るべからず。しかる所以は、この界の少時の修行を勝となし、かの国の多時の善根を劣となせばなり。既にしからば、上々品の人、この世界に於て、一日より七日に至るまで、三福業を具足して、なほ無生法忍を証することあたわざるに、いかんぞかしこに生れて、法を聞いて即ちに悟らん。故に知んぬ、かの国土の長遠の時剋を経て、無生忍を悟るということを。しかれば、かしこに約して即ちに悟ると名づくるも、ここに望むれば、即ち億千歳なり。或はいふべし、上々の人は、必ずこれ方便後心の行、円満せる者なりと。もししからずは、諸文桙楯せん。
答ふ。いまだ知らず、かの国の多善は劣り、この界の少善は勝るといふことを。
 問、双観経説、於是広植徳本、布恩施恵、勿犯道禁、忍辱精進、一心智慧、転相教化、立善正意、斎戒清浄、一日一夜、勝在無量寿仏国為善百歳、所以者何、彼仏国土、無為自然、皆積衆善、無毛髪之悪、於此修善、十日十夜、勝於他方諸仏国中為善千歳<已上> 是其勝劣、答、二界善根、剋対可尓、然値仏縁勝、速悟無失、或此経、但顕修行難易、非顕善根勝劣、譬如貧賎施一銭、雖可称美、而不弁衆事、富貴捨千金、雖不可称、而能弁万事、二界修行亦復如是、如金剛般若経云、仏世信解、未足為勝、滅後為勝、或有余義、不能委曲  問ふ。双観経に説かく、
ここに於いて広く徳本を植え、恩を布き、恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧にして、転た相教化し、善を立て意を正しくし、斎戒清浄なること、一日一夜すれば、無量寿仏国にありて、善をなすこと百歳するに勝れり。所以はいかん。かの仏の国土は、無為自然にして、皆衆善を積み、毛髪ほどの悪もなければなり。ここに於いて善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国中に於て、善をなすこと千歳するに勝れり
と。<已上> これその勝劣なり。
答ふ。二界の善根は、剋対せばしかるべし。しかれども仏に値ひたてまつる縁は勝れたれば、速かに悟るに失なし。或はこの経は、ただ修行の難易を顕せるものにして、非顕善根の勝劣を顕せるものにあらず。譬へば、貧賎の一銭を施すは、称美すべしといへども、しかも衆事を弁ぜざるに、富貴の千金を捨つるは称むべからずといへども、しかも能く万事を弁ずるが如し。二界の修行も亦またかくの如し。金剛般若経に云ふが如し。
仏世に信解するは、いまだ勝れたりとなすに足らず。滅後をば勝れたりとなす。
と。或は余の義あり。委曲することあたわず。
 問、如随娑婆行因極楽階位有別、所感福報亦有別耶、答、大都無別、細分有差、如陀羅尼集経第二云、若人不以香花衣食等供養者、雖生彼浄土、而不得香花衣食等種々供養之報<此文違於彼仏本願、更思択之> 又玄一師、因法師同云、約実而論、亦有勝劣、然其状相似故、説無好醜  問ふ。娑婆の行因に随ひて極楽の階位に別あるが如く、所感の福報もまた別ありや。
答ふ。大都は別なきも、細分は差あり。如陀羅尼集経の第二云に云ふが如し。
もし人不以香花・衣食等を以て供養せざれば、かの浄土に生まるといへども、しかも香花・衣食等の種々の供養の報を得ず
と。 <この文、かの仏の本願に違ふ。更にこれを思択せよ>また玄一師と因法師とは、同じく云く、
実に約して論ずれば、また勝劣あり。しかもその状相似たるが故に好醜なしと説く。
と。
 問、極楽世界、去此幾処、答、経云、従此西方、過十万億仏土、有極楽世界、有経云、於是西方、去此世界、過百千倶胝那由多仏土、有仏世界、名曰極楽  問、二経何故不同、答、論智光疏意云、言倶胝者、此為億也、那由多者、当此間姟数也、世俗言、十千曰万、十万曰億、十億曰兆、十兆曰経、十経曰姟、姟猶是大数也、百千倶胝即十万億、億有四位、一者十万、二者百万、三者千万、四者万々、今言億者、即是万々、為顕此義、挙那由多<已上> 此釈可思  問ふ。極楽世界は、ここを去ること幾ばくの処なるや。
答ふ。経に云く、
これより西方、十万億の仏土を過ぎて、極楽世界あり。
と。ある経に云く、
これより西方、この世界を去ること、過百千倶胝那由多くていなゆたの仏土を過ぎて仏世界あり。名づけて極楽と曰ふ。
 問ふ。二経、何が故に同じからず。
答ふ。論の智光の疏の意に云く、
倶胝と言ふは、ここには億となすなり。那由多とは、この間の姟の数に当たるなり。世俗に言く、十千を万と曰ひ、十万を億と曰ひ、十億を兆と曰ひ、、十兆を経と曰ひ、十経を姟と曰ひ、姟は、なほこれ大数なり。百千倶胝とは、即ち十万億なり。億に四位あり。一は十万、二は百万、三には千万、四には万々なり。今億と言えるは即ちこれ万々なり。この義を顕わさんが為に、那由多を挙ぐるなり。
と。<已上>この釈思ふべし。
 問、彼仏所化、為唯極楽、為亦有余、答、大論云、阿弥陀仏、亦有厳浄不厳浄土、如釈迦牟尼  問、何等是耶、答、極楽世界、即是浄土、然其穢土、未知何処、但道綽等諸師、以鼓音声経所説国土、為彼穢土、如彼経云、阿弥陀仏、与声聞倶、其国号曰清泰、聖王所住、其城縦広、十千由旬、於中充満刹利之種、阿弥陀如来応正遍知父、名月上転輪聖王、其母、名曰殊勝妙顔、子名月明、奉事弟子、名無垢称、智慧弟子、名曰攬光、神足精勤、名曰大化、尓時魔王、名曰無勝、有提婆達多、名曰寂〔静〕、阿弥陀仏、与大比丘六万人倶<已上>  問ふ。かの仏の化したまふ所は、ただ極楽のみとせんや、また余ありとせんや。
答ふ。大論に云く、
阿弥陀仏にもまた厳浄と不厳浄の土あること、釈迦牟尼の如し。
と。
 問ふ。何等かこれなるや。
答ふ。極楽世界は即ちこれ浄土なり。しかれどもその穢土はいまだいづれの処なるかを知らず。ただ道綽等の諸師は、鼓音声経に説く所の国土を以てかの穢土となせり。かの経に云ふが如し。
阿弥陀仏は、声聞と倶なり。その国を号して清泰と曰ふ。聖王の住む所にして、その城の縦広十千由旬、中に刹利の種を充満せり。、阿弥陀如来応・正遍知の父を月上転輪聖王と名づけその母を名づけて殊勝妙顔と曰ひ、子を月明と名づけ、奉事の弟子を名無垢称と名づけ、智慧の弟子を、名づけて攬光と曰ひ、神足の精勤を名づけて大化と曰ふ。その時の魔王を名づけて無勝と曰ひ、提婆達多ありて、名づけて寂〔静〕と曰ふ。阿弥陀仏は、大比丘六万人と倶なり。
と。<已上>
 問、彼仏所化、為唯極楽清泰二国、答、教文随縁、且挙一隅、論其実処、不可思議、如華厳経偈云、菩薩修行諸願海、普随衆生心所欲、衆生心行広無辺、菩薩国土遍十方 問ふ。かの仏の化したまふ所は、ただ極楽と清泰の二国なりとするや。
答ふ。教文は縁に随ひて、ただ一隅を挙ぐるのみ。その実処を論ずれば、不可思議なり。華厳経の偈に云ふが如し。
菩薩はもろもろの願海を修行して、普く衆生の心の欲ふ所に随ふ 衆生の心行、広くして無辺なれば、菩薩の国土も十方に遍し
又云、如来出現遍十方、一々塵中無量土、其中境界亦無量、悉住無辺無尽劫  問、如来施化、事不孤起、要対機縁、何遍十方、答、広劫修行、成就無量衆、故彼機縁亦、遍十方界、如華厳偈云、往昔勤修多劫海、能転衆生深重障、故能身分遍十方、悉現菩提樹王下 と。また云ふ。
如来は出現して十方に偏し 一々の塵の中に無量土あり その中の境界もまた無量なり 悉く無辺無尽劫に住る
と。
 問ふ。如来の化を施したまふは、事孤り起こらず。、要ず機縁に対す。何ぞ遍十方に偏ずるや。
答ふ。広劫に修行して無量の衆を成就したまふ。故にかの機縁もまた十方界に偏し。華厳の偈に云ふが如し。
往昔に勤修すること多劫海にして 能く衆生の深重の障を転ず 故に能く身を分けて十方に偏じ 悉く菩提樹王の下に現じたまふ
と。
 第二、往生階位者、問、瑜伽論云、三地菩薩方生浄土、今勧地前凡夫声聞、有何意、答、浄土差別、故無有過、如感師釈云、諸経論文、説生浄土、各拠一義、浄土既有麁妙勝劣、得生亦有上下階降<已上> 又道暹律徳云、三地菩薩、始見報仏浄土  問、設非報土、惑業重者、豈得浄土、答、天台云、無量寿仏国、雖果報殊勝、臨終之時、懺悔念仏、業障便転、即得往生、雖具惑染、願力持心、亦得居也 第二に、往生の階位とは、問ふ、瑜伽論「三地菩薩は方に浄土に生まる」と云えるに、今、地前の凡夫・声聞を勧むるは何の意かあるや。
答ふ。浄土に差別あり。故に過あることなし。感師の釈して云へるが如し。
もろもろの経論の文に、浄土に生きることを説くは、おのおの一義に拠る。浄土には既に麁妙そみょう・勝劣あれば、生るるを得るにもまた上下階降あり。
と。<已上> また道暹律徳の云く、
三地の菩薩にして始めて見報仏の浄土を見る。
と。  問ふ。たとひ報土にあらざらんも、惑業重き者、あに浄土を得んや。
答ふ。天台の云く、
無量寿仏の国は、果報殊勝なりといへども、臨終の時、懺悔して念仏すれば、業障便ち転じて、即ち往生することを得。惑染を具すといへども、願力もて心を持たば 、また居ことを得るなり。
と。
 問、若許凡夫亦得往生、弥勒問経、如何通会、経云、念仏者、非凡愚念、不雑結使、得生弥陀仏国<已上>、答、西方要決釈云、知娑婆苦、永辞染界、非薄浅、凡当来作仏、意専広、度法界衆生、有斯勝解故、非愚也、正念時、結使眠伏故、言不雑結使念也、<略抄> 意云、凡夫行人具此徳也 問ふ。もし凡夫もまた往生することを得と許さば、弥勒問経をいかんが、いかんが通会せん。経に云く、
仏を念ずるは、凡愚の念にあらず。結使を雑へずして、弥陀仏の国に生まれることを得。
と。
<已上>答ふ。西方要決に釈して云く、
娑婆の苦を知りて永く染界を辞せんとするは、薄浅にあらず。およそ当来に作仏して、意専ら広く、法界の衆生を度せんとす。この勝解あるが故に、愚にはあらざるなり。正念の時、結使眠伏けっしめんぷくするが故に、結使の念を雑へずと言うなり
と。<略抄> 意は、凡夫の行人のこの徳を具するを云ふなり。
 問、彼国衆生、皆不退転、明知、非是凡夫生処、答、所言不退者、非必是聖徳、如要決云、今明不退、有其四種、十住毘婆沙云、一位不退、即修因万劫、不復退堕悪律儀行流転生死、二行不退、已得初地、利他行不退、三念不退、八地已去無功用、意得自在故、四処不退、雖無文証、約理以成、何者、如天中得果即得不退、浄土亦尓、命長無病、勝侶提携、純正無邪、唯浄無染、恒事聖尊、由此五縁、其処無退<已上略抄>  問ふ。かの国の衆生は、皆退転せずと。明かに知んぬ、これ凡夫の生るる処にあらざることを。答ふ。言ふ所の不退とは、非ずしもこれ聖の徳にあらず。要決に云ふが如し。
今、不退を明かさば、その四種あり。十住毘婆沙に云く、「一には位不退。即ち修因を修すること万劫なれば、また悪律儀の行に退堕するも生死に流転せず。二には行不退。已に得初地を得れば、利他の行退かず。三には念不退。八地已去は無功用にして、意に自在を得るが故に。四には処不退。文証なしといへども、理に約して以て成ず。いかんとなれば、如天の中に果を得れば即ち不退を得るが如く、浄土もまたしかり。命長くして病なく、勝れたる侶と提携し、純正にして邪なく、ただ浄にして染なく、恒に事聖尊に事ふ。この五の縁に由りて、その処に退くことなし」と。
と。<已上略抄>
 問、九品階位、異解不同、如遠法師云、上々生四五六地、上中生初二三地、上下生地前三十心、力法師云、上々行向、上中十解、上下十信、基師云、上々十廻向、上中解行、上下十信、有云、上々十住初心、上中十信後心、上下十信初位、有云、上々十信、及以前能発三心、能修三行者也、上中上下、唯取十信以前、発菩提心修善凡夫、起行浅深、以分二品也、所以諸師所判不同者、以無生忍位不同、故仁王経、無生忍在七八九地、諸論在初地、或忍位、本業瓔珞経在十住、華厳経在十信、占察経説、修一行三昧得相似無生法忍者也、故諸師各拠一義也[、中品三生、遠云、中上是前三果、中々是七方便、中下是種解脱分善人、力法師同之、基云、中上四善根、中々三賢、中下方便前人、有云、如次忍頂煗、有云、三生並是種解脱分善根人也<已上六品、亦有余釈、見感禅師論竜興記等> 問ふ。九品の階位、異解不同なり。遠法師は、「上々の生は四・五・六地、上中生は初・二・三地、上下の生は地前の三十心なり」と云ひ、力法師は、「上々は行向、上中十解、上下十信」と云ひ、基師は、「上々は十廻向、上中は解・行、上下は十信」と云ひ、あるは、「上々は十住の初心、上中は十信の後心、上下は十信の初位」と云ひ、あるは、「上々は十信及び以前の能く三心を発して、能く修三行を修する者なり。上中と上下とは、ただ十信以前の、菩提心を発して、善を修する凡夫を取る。起行の浅深により、以て二品を分かつなり」と云ふが如し。所以諸師の所判の不同なる所以は、無生忍の位の不同なるを以てなり。故に仁王経には、無生忍は七・八・九地にあり、諸論には初地にあり、或は忍位なり、本業瓔珞経には十住にあり、華厳経には十信にあり、占察経には、説修一行三昧を修して相似の無生法忍を得る者を説くなり。故に諸師おのおの一義に拠るなり。中品の三生には、遠は、「中上はこれ前の三果、中々はこれ七方便、中下はこれ解脱分の善を種へたる人なり」、力法師もこれに同じ。基は、「中上は四善根、中々は三賢、中下は方便の前の人なり」と云ひ、あるは、「次の如く忍・頂・煗なり」と云ひ、あるは、「三生は並にこれ解脱分の善根を種たる人なり」と云ふ。<已上六品もまた余の釈あり。感禅師の論、竜興の記等を見よ>
 下品三生、無別階位、但是具縛造悪人也、明往生人、其位有限、寧知猶是我等分耶、答、上品之人、階位設深、下品三生、豈非我等分耶、況彼後釈、既取十信以前凡夫、為上品三、又観経善導禅師玄義、以大小乗方便以前凡夫、判九品位、不許諸師所判深高、又経論多依文義判、今経説所上三品業、何必執為深位行耶 下品の三生には別の階位なし。だがこれ具縛造悪の人なり。
明らけし、往生の人はその位に限りあることを。いづくんぞ、
 なほこれわれ等が分なりといふことを知らんや。
答ふ。上品の人は、階位たとひ深くとも、下品の三生、あに我等が分にあらざらんや。いはんや、かも後の釈には、既に十信以前の凡夫を取りて上品の三とせるを。また観経の善導禅師の玄義には、大小乗の方便以前の凡夫を以て九品の位に判じ、諸師の所判の深高なるを許さず。また経・論は、多くは文に依りて義を判ずるものなり。今、経に説く所の上三品の業、何ぞ必ずしも執して深位の行とせんや。
 問、若尓生彼、不応早悟無生法忍、答、天台有二無生忍位、若別教人、歴劫修行、悟無生忍、若円教人、乃至悪趣身、亦有頓証者、穢土尚尓、何況浄土、彼土諸事、莫例余処、何処一切凡夫、未至其位、終無退堕、何処一切凡夫、悉得五神通、妙用無碍耶、証果遅速、例亦可然 問ふ。もししからばかしこに生まれて、早く無生法忍悟るべからず。
答ふ。天台に二の無生忍の位あり。もし別教の人ならば、歴劫に修行して、悟無生忍を悟り、もし円教の人ならば、乃至、悪趣の身にてもまた頓証する者あり。穢土にしてなほしかり、いかにいはんや浄土をや。かの土の諸事は、余処に例することなかれ。いづれの処か、一切の凡夫、いまだその位に至らずして、終に退堕することなく、いずれの処か、一切の凡夫、悉く五神通を得て、妙用無碍ならんや。証果の遅速、例にしてまたしかるべし。
 問、上品生人、得益早晩、一向尓耶、答、経中且挙一類、故慧遠和尚観経義記云、九品人、生彼国已、得益之劫数、依勝而説、理亦有過之者<取意> 今謂、汎論九品、或復可有少分速於此者 問ふ。上品生の人の、得益の早晩は、一向にしかるや。
答ふ。経の中には且く一類を挙げしのみ。故に慧遠和尚の観経義記に云く、
九品の人の、生かの国に生まれ已りて、益を得る劫数は、勝れたるものに依りて説きしなり。理はまたこれに過ぎたる者あるべし。
と。<取意> 今謂く、汎く九品を論ぜば、或はまた少分はこれより速やかなる者あるべし。
 問、双観経中、亦有弥勒等如諸大菩薩、当生極楽、故知、経中九品得益、依劣而説、何言依勝耶、答、約生彼国始悟無生前後早晩、謂之依勝、更不論彼上位大士、然彼大士、於九品中摂与不摂、別応思択 問ふ。双観経の中にもまた弥勒等の如きもろもろの大菩薩ありて、当に極楽に生ずべしといへり。故に知んぬ、経の中の九品の得益は劣れるものに依りて説けることを。 なんぞ、「勝れりたるものに依りて」と言へるや。
答ふ。かの国に生まれて始めて無生を悟る、前後・早晩に約して、これを「勝れるものに依りて」謂ひしなり。更にかの上位の大士を論ぜるにあらず。しかれども、かの大士を九品の中に摂せざると摂するとは、別に思択すべし。
 問、若凡下輩、亦得往生、云何近代、於彼国土、求者千万、得無一二、答、綽和尚云、信心不深、若存若亡故、信心不一、不決定故、信心不相続、余念間故、此三不相応者、不能往生、若具三心、不往生者、無有是処、導和尚云、若能如上、念々相続、畢命為期者、十即十生、百即百生、若欲捨専修雑業者、百時希得一二、千時希得三五<言如上者、指礼讃等五念門、至誠等三心、長時等四修也> 問ふ。もし凡下の輩もまた往生することを得ば、いかんぞ、近代、かの国土を求むる者は千万なるに、得たるものは一二もなきや。
答ふ。綽和尚の云く、
信心深からず、もしは存しもしは亡するが故に。信心一ならず、決定せざるが故に。信心相続せず、余念間つるが故に。この三、相応せざれば、不能往生することあたわず。もし三心を具して、往生せずといはば、この処あることなし。
と。導和尚の云く、
もし能く上の如く念々相続して、 畢命を期とする者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。
と。<「上の如く」と言ふは、礼・讃等の五念門と、至誠等の三心と、長時等の四修を指すなり>
 問、若必畢命為期者、如何感和尚云、長時短時、多修少修、皆得往生耶、答、業類非一、故二師倶無過、然畢命為期、勤修無怠、令業決定、是為張本 問ふ。もし必ず畢命を期となすとせば、いかんぞ、感和尚は、「長時も短時も、多修も少修も、皆往生を得」と云えるや。
答ふ。業類は一にあらず。故に二師倶に過なし。しかれども、畢命を期ひつみょうをごとなし、勤修して怠ることなくは、業をして決定せしむるにはこれを張本となす。
 問、菩薩処胎経第二説、西方去此閻浮提、十二億那由他、有懈慢界、国土快楽、作倡伎楽、衣被服飾、香花荘厳、七宝転開床、挙目東視、宝床随転、北視西視南視、亦如是転、前後発意衆生、欲生阿弥陀仏国者、皆深著懈慢国土、不能前進生阿弥陀仏国、億千万衆、時有一人、能生阿弥陀仏国<已上> 以此経准、難可得生、答、群疑論引善導和尚前文、而釈此難、又自助成云、此経下文言、何以故、皆由懈慢執心牢固、是知、雑修之者、為執心不牢之人、故生懈慢国也、若不雑修、専行此業、此即執心牢固、定生極楽国<乃至> 又報浄土生者極少、化浄土中生者不少、故経別説、実不相違也<已上> 問ふ。菩薩処胎経の第二に説かく、
西方に、この閻浮提えんぶだいを去ること、十二億那由他に懈慢界けまんがいあり。国土快楽にして、倡・伎楽を作す。衣被・服飾・香花もて荘厳せり。七宝の転開せる床ありて、目を挙げて東を視んとすれば、宝床随ひて転じ、北を視、西を視、南を視るも、またかくの如く転ず。前後して意を発せる衆生の、阿弥陀仏の国に生まれんと欲する者も皆深く懈慢国土に著して、前に進んで阿弥陀仏の国に生るることあたはず。億千万の衆に、時に一人ありて能く阿弥陀仏の国に生る。
<已上> 以此経准、難可得生、答、群疑論引善導和尚前文、而釈此難、又自助成云、
この経の下の文に言く、「何を以ての故に。皆懈慢にして執心牢固ならざるに依る」と。ここに知んぬ、雑修の者は執心不牢の人となすことを。故に懈慢国に生まるるなり。もし雑修せずして、専らこの業を行ぜば、これ即ち執心牢固にして、定んで極楽国に生まれん。<乃至>また報の浄土に生るる者は極めて少なく、化の浄土の中に生者は少なからず。故に経には別に説けり。実に相違せざるなり。
と。<已上>
 問、設雖不具三心、雖不期畢命、彼一聞名、尚得成仏、況暫称念、何唐捐耶、答、暫似唐捐、終非虚説、如華厳偈説聞経者転生時益云、若人堪忍聞、雖在於大海、及劫尽火中、必得聞此経<大海者是竜界> 釈云、由余業故、生彼難処、由前信故、成此根器、云々、信華厳者、既而如是、信念仏者、豈無此益、彼一生作悪業、臨終遇善友、纔十念仏、即得往生、如是等類、多是前世、欣求浄土、念彼仏者、宿善内熟、今開発耳、故十疑云、臨終遇善知識、十念成就者、並是宿善強、得善知識、十念成就、云々、感師意亦同之  問ふ。たとひ三心を具せずといへども、畢命を期せずといへども、かの一たび名を聞くすらなほ成仏することを得といふ。いわんや暫くも称念する、なんぞ唐捐とうえんならんや。
答ふ。暫くは唐捐なるに似たれども、終には虚説にあらず。華厳の偈に、経を聞ける者の、転生の時の益を説いて云ふが如し。
もし人堪忍せるものは 大海 及び劫尽の火の中にありといへども、必ずこの経を聞くことを得ん
と。<「大海」とはこれ竜界なり> 釈に云く、
余の業に由るが故にかの難処に生まれ、前の信に由るが故にこの根器を成ず
と云々。華厳を信じる者にして、既にかくの如し。念仏を信ぜん者、あにこの益なからんや。かの一生に作悪業を作れるもの、臨終に善友に友ひ、纔かに十たび念仏して、即ち往生することを得。かくの如き等の類、多くはこれ前世に浄土を欣求してかの仏を念ぜし者の、宿善内に熟して今開発するのみ。故に十疑に云く、
臨終に善知識に遇ひて、十念成就する者は、並これ宿善強く、善知識を得て十念成就するなり。
と云々。感師の意もまたこれに同じ。
 問、下々品生、若依宿善、十念生本願、即有名無実、答、設有宿善、若無十念、定堕無間、苦受無窮、明臨終十念、是往生勝縁 問ふ。下々品の生、もし宿善に依らば、十念生の本願は即ち有名無実ならん。
答ふ。たとひ宿善ありとも、もし十念することなくは、定んで無間に堕ち、苦を受けること窮りなからん。明らけし、臨終の十念はこれ往生の勝縁なり。
 第三、往生多少者、双観経云、仏告弥勒、於此世界、六十七億不退菩薩、往生彼国、一々菩薩、已曾供養無数諸仏、次如弥勒、諸小行菩薩、及修少功徳者、不可称計、皆当往生、他方仏土、亦復如是、其遠照仏国、百八十億菩薩、宝蔵仏国、九十億菩薩、無量音仏国、二百廿億菩薩、甘露味仏国、二百五十億菩薩、竜勝仏国、十四億菩薩、勝力仏国、万四千菩薩、師子仏国、五百菩薩、離垢光仏国、八十億菩薩、徳首仏国、六十億菩薩、妙徳山仏国、六十億菩薩、人王仏国、十億菩薩、無上花仏国、無数不可称計、不退諸菩薩、智慧勇猛、已曾供養無量諸仏、於七日中、即能摂取百千億劫大士所修堅固之法、無畏仏国、七百九十億大菩薩衆、諸小菩薩、及比丘等、不可称計、皆当往生、不但此十四仏国中諸菩薩等当往生也、十方世界無量仏国、其往生者、亦復如是、甚多無数、我但説十方諸仏名号、及菩薩比丘生彼国者、昼夜一劫、尚未能竟 第三に、往生の多少とは、双観経に云く、
仏、弥勒に告げたまはく、「この世界に於て、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、已に曾て無数の諸仏を供養し、次で弥勒の如し。もろもろの小行の菩薩、及び少功徳を修する者、称計しょうげすべからず、皆当に往生すべし。他方の仏土もまたかくの如し。その遠照の仏の国の、百八十億の菩薩、宝蔵仏の国の九十億の菩薩、無量音仏の国の二百廿億菩薩、甘露味仏の国の二百五十億菩薩、竜勝仏の国の十四億菩薩、勝力仏の国の万四千菩薩、師子仏の国の五百菩薩、離垢光仏の国の八十億菩薩、徳首仏の国の六十億菩薩、妙徳山仏の国の六十億菩薩、人王仏の国の十億菩薩、無上花仏の国の、無数不可称計の不退のもろもろの菩薩は、智慧勇猛にして、已に曾て無量の諸仏を供養し、七日の中に於て、即ち能く百千億劫の大士の修する所の、堅固の法を摂取せり。無畏仏の国の七百九十億の大菩薩衆と、もろもろの小菩薩及び比丘等は、称計すべからず。皆当に往生すべし。ただこの十四の仏国の中のもろもろの菩薩等の往生すべきのみにあらず。十方世界の無量の仏国より、その往生の者も亦またかくの如し、甚だ多く無数なり。我、ただ十方諸仏の名号、及び菩薩と比丘のかの国に生ぜん者を説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ竟ることあたわず」と。
<已上、略抄> 此諸仏土中、今娑婆世界、有修少善当往生者、我等幸遇釈尊遺法、億劫時、一預少善往生流、応務勤修、莫失時焉 と。<已上、略抄>このもろもろの仏土の中に、今娑婆世界に少善を修してして当に往生すべき者あり。我等、幸に釈尊の遺法に遇ひたてまつり、億劫の時に一たび少善往生の流に預れり。応に務めて勤修すべし。時を失うことなかれ。
 問、若少善根亦得往生、如何経云、不可以少善根福徳因縁得生彼国、答、此有異解、不能繁出、今私案云、大小無定、相待得名、望大菩薩、名之少善、望輪廻業、名之為大、是故、二経義不違害 問ふ。もし少善根もまた往生することを得ば、いかんぞ経に、「少善根・福徳の因縁を以てかの国に生るることを得っべからず。
答ふ。これ異解あるも、不能繁く出すことあたわず。今私に案じて云く、大小は定めなし、相待して名を得。大菩薩に望むればこれを少善と名づけんも、輪廻の業に望むれば、これを名づけて大となす。この故に、二経の義、違ひ害はず。
 第四、明尋常念相者、此有多種、大分為四、一定業、謂坐禅入定観仏、二散業、謂行住坐臥、散心念仏、三有相業、謂或観相好、或念名号、偏厭穢土、専求浄土、四無相業、謂雖称念仏欣求浄土、而観身土即畢竟空、如幻如夢、即体而空、雖空而有、非有非空、通達此無二、真入第一義、是名無相業、是最上三昧、故双観経、阿弥陀仏言、通達諸法性、一切空無我、専求浄仏土、必成如是刹、又止観常行三昧中、有三段文、具如上別行中引 第四に、尋常の念相を明かさば、これに多種あり。大いに分ちて四となす。一には定業。謂く坐禅入定して仏を観ずるなり。二には散業。謂く行住坐臥に、散心して念仏するなり。三には有相業。謂く或は相好を観じ、或は名号を念じて、偏に穢土を厭い、専ら浄土を求むるなり。四には無相業。謂く、仏を称念し浄土を欣求といへども、しかも観身土は即ち畢竟空にして、幻の如く如夢の如く、体に即して空なり、空なりといへども、しかも有なり、有にあらず空にあらずと観じて、この無二に通達し、真に第一義に入るなり。これを無相業と名づく。これ最上の三昧なり。故に双観経に阿弥陀仏は、
諸法の性は 一切空・無我なりと通達すれども 専ら浄き仏土を求め、必ずかくの如き刹を成ぜん
と言へるなり。また止観の常行三昧の中に三段の文あり。具さには上の別行の中に引くが如し。
 問、定散念仏、倶往生耶、答、慇重心念、無不往生、故感師説念仏差別云、或深或浅、通定通散、定即於凡夫終于十地、如善財童子於功徳雲比丘所、請学念仏三昧、此即甚深法也、散即一切衆生、若行若坐、一切時処、皆得念仏、不妨諸務、乃至、命終亦成其行<已上> 問ふ。定・散の念仏は、倶に往生するや。
答ふ。慇重の心もて念ずれば、往生せずといふことなし。故に感師、念仏の差別を説いて云く、
或は深く或は浅く、定に通じ散に通ず。定は即ち凡夫より十地に終る。如善財童子の、功徳雲比丘の所に於て念仏三昧を請け学びしが如し。これ即ち甚深の法なり。散は即ち一切衆生の、もしは行もしは坐、一切の時処に、皆念仏することを得て、諸務を妨げず。乃至、命終にもまたその行を成す。
と。<已上>
 問、有相無相業、倶得往生耶、答、綽和尚云、若始学者、未能破相、但能依相専至、無不往生、不須疑也、又感和尚云、往生既品類差殊、修因亦有浅深各別、不可但言唯修無所得而得往生、有所得心不得生也  問ふ。有相と無相との業は、倶に往生することを得るや。
答ふ。綽和尚の云く、
もし始学の者ならば、いまだ相を破ることあたはざるも、ただ能く相に依りて専至せば往生せずといふことなし。疑ふべかざるなり。
と。また感和尚の云く、
往生には既に品類ありて差殊なれば、修因にもまた浅深ありておのおの別なり。ただしただ無所得を修するもののみ往生することを得るも、有所得の心にては生るることを得ずとは言ふべからざるなり。
 問、若尓如何、仏蔵経説、若有比丘、教余比丘、汝当念仏念法念僧念戒念施念天、如是等思惟、観涅槃安楽寂滅、唯愛涅槃畢竟清浄、如是教者、名為邪教、名悪知識、是人、名為誹謗於我助於外道、如是悪人、我乃不聴受一飲水、又言、寧成就五逆重悪、不成就我見衆生見寿見命見陰入界見等耶、<已上略抄>  答、感師釈云、有聖教復言、寧起我見如須弥山、不起空見如芥子許、如是等諸大乗経、訶有訶空、讃大讃小、並乃逗機不同、又有経言、今者阿弥陀如来応正等覚、具有如是三十二相八十随形好、身色光明、如聚金融、如是乃至、不念彼如来、亦不得彼如来、已如是、次第得空三昧、又観仏三昧経云、如来亦有法身十力無畏三昧解脱諸神通事、如此妙処、非汝凡夫所覚境界、但当深心起随喜想、起是想已、当復繋念念仏功徳、故知、初学之輩、観彼色身、後学之徒、念法身也、故言如是次第得空三昧、当須善会経意、勿生毀讃之心、妙知、大聖巧逗根機者<已上、観仏経第九、説観仏一毛乃至観具足色身已、有所引之十力無畏三昧等文> 問ふ。もししからば、いかんぞ、仏蔵経には、
もし比丘ありて、教余の比丘を押教へて、「汝、当に仏を念じ、法を念じ、法僧を念じ、僧を念じ、戒を念じ、施を念じ、天を念ずべし。かくの如き等の思惟もて、涅槃の安楽・寂滅なるを観じ、ただ涅槃の畢竟清浄なるを愛せよ」と。かくの如く教ふる者を名づけて、邪教となし、悪知識と名づく。この人を名づけて我を誹謗し外道を助くとなす。かくの如き悪人には、我乃ち不聴受一飲の水をも受くることを聴さず。
と説き、また、
むしろ五逆重悪を成就すとも、我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見等をば成就せざれ。
と言えるや<已上略抄>
 答ふ。感師の釈して云く、
聖教ありてまた言く、「むしろ我見を起すこと須弥山の如くすとも、空見を起こすこと芥子許りの如くもせざれ」と。かくの如き等のもろもろの大乗経には、有をし空をし、大を讃め小を讃むること、みな乃ち機に逗りて同じからざるなり。またある経に言く、「今、阿弥陀如来・応・正等覚は、具にかくの如き三十二相・八十随形好あり、身色・光明は、聚金の融けたるが如し。かくの如くして、乃至、かの如来を念ぜず、またかの如来を得ざれ。すでにかくの如くして、次第に空三昧を得ん」と。また観仏三昧経に云く、「如来にまた法身・十力・無畏・三昧解脱のもろもろの神通の事あり。かくの如き妙処は、汝凡夫の覚する所の境界にあらず。ただ当に深き心に随喜の想を起こすべし。この想を起こし已らば、当にまた念を繋けて仏の功徳を念ずべし。」と。故に知んぬ、初学の輩は、観かの色身を観じ、後学の徒は、念法身を念ずるなりと。故に、「かくの如くして次第に空三昧を得ん」と言へり。当にすべからく善く経の意を会して、毀讃の心を生ずることなかれ。妙く知る、大聖は巧みに根機に逗まりたまふものなることを。
と。<已上は、観仏経の第九に、説観仏の一毛を観じて、乃至、観具足の色身を観ずることを説き已りて、引く所の十力・無畏・三昧等の文にあり>
 問、念仏之行、於九品中、是何品摂、答、若如説行、理当上々、如是随其勝劣、応分九品、然経所説九品行業、是示一端、理実無量  問ふ。念仏の行は、九品の中に於て、これいづれの品の摂なるや。
答ふ。もし説の如く行ぜば、理として上々に当れり。かくの如く、その勝劣に随ひて、応に九品を分つべし。しかれども経に説く所の九品の行業は、これ一端を示せるのみ。理、実には無量なり。
 問、為如若定散倶得往生、亦為現身倶見仏耶、答、経論多説三昧成就即得仏見、明知、散業不可得見、唯除別縁  問、有相無相観、倶得見仏耶、答、無相見仏、理在不疑、其有相観、或亦見仏、故観経等、勧観色相 問ふ。もし定・散倶に往生することを得とせば、また現身に倶に仏を見たてまつるとせんや。
答ふ。経・論に、多く、三昧成就して即ち仏を見たてまつることを得と説けば、明らかに知んぬ、散業はみることを得べからざることを。ただ別縁をば除く。  
問ふ。相無と相観との観は、倶に仏を見たてまつることを得んや。
答ふ。無相の仏を見たてまつることは、理疑はざるにあり。その有相の観も、或はまた仏を見たてまつる。故に観経等には観色相を観ずることを勧めたり。
 問、若有相観、亦見仏者、云何華厳経偈云、凡夫見諸法、但随於相転、夫了法無相、以是不見仏、有見則為垢、此則未為見、遠離於諸見、如是乃見仏、又云、了知一切法、自性無所有、如是解法性、即見盧遮那、金剛経云、若以色見我、以音声求我、是人行邪道、不能見如来、答、要決通云、大師説教、義有多門、各称時機、等無差異、般若経自是一門、弥陀等経復為一理、何者一切諸仏、並有三身、法仏無形体、非色声、良為二乗及小菩薩、聞説三身不異、即謂同有色声、但見化身色相、遂執法身亦尓、故説為邪、弥陀経等、勧念仏名観相求生浄土者、但以凡夫障重、法身幽微、法体難縁、且教念仏観形礼讃<略抄>  問ふ。もし有相の観も、また仏を見たてまつるとせば、いかんぞ、華厳経の偈には、
凡夫の諸法を見るは ただ相に随ひて転じ 法の無相を了らず これを以て仏を見たてまつらざるなり 見ることあれば則ち垢となり これ則ちいまだ見るとなさず 諸見を遠離して かくのごとくして乃ち仏を見たてまつる
と云ひ、また
了知一切法を 自性ある所なしと了知し かくのごとく 法性を解れば 即ち盧遮那を見たてまつる
と云ひ、金剛経云には
もし色を以て我を見、音声を以て我を求めば この人は邪道を行じて 如来を見たてまつることあたはず
と云えへるや
答ふ。要決に通じて云く、
大師の説教は、義に多門あり。おのおの時機に称ひ、等しくして差異なし。般若経は自らこれ一門にして、弥陀等の経もまた一理となす。いかんとなれば一切の諸仏には並三身ありて、法仏には形体なく、色・声もなし。良に二乗及び小菩薩の聞説三身は異ならずと説くを聞いて、即ち同じく色・声ありとおもひ、ただ化身の色相のみを見て、遂に執法身もまたしかりと執するが為なり。故に説いて邪となす。弥陀経等に、仏の名を念じ観相を観じて、浄土に生まるることを求めよと勧むるは、ただ凡夫は障り重きを以て、法身の幽微にして、法体の縁じ難ければ、且く仏を念じ、形を観じて礼讃せよと教へたるのみ
と。<略抄>
 問、凡夫行者、雖勤修習、心不純浄、何輒見仏、答、衆縁合見、非唯自力、般舟経有三縁、如上九十日行所引止観文  問、以幾因縁、得生彼国、答、依経案之、具四因縁、一自善根因力、二自願求因力、三弥陀本願縁、四衆聖助念縁<釈迦護助、出平等覚経、六方仏護念、出小経、山海慧菩薩等護持、出十往生経、云々> 問ふ。凡夫の行者は、勤めて修習すといへども心純浄ならず。なんぞたやすく見仏を見たてまつらん。
答ふ。衆縁合して見たてまつるなり。ただ自力のみにはあらず。般舟経に三縁あり。上の九十日の行に引きし所の止観の文の如し、
 問ふ、幾ばくかの因縁を以てか、かの国に生まるることを得る。
答ふ。経に依りてこれを案ずるに、四の因縁を具す。一には自らの善根の因力、二には自らの願求の因力、三には弥陀の本願の縁、四には衆聖の助念の縁なり。<釈迦の護助は平等覚経に出で、六方の仏の護念は、小経に出で、山海慧菩薩等の護持は十往生経に出でたりと云々>
第五、明臨終念相、問、下々品人、臨終十念、即得往生、所言十念、何等念耶、答、綽和尚云、但憶念阿弥陀仏、若惣相若別相、随所縁観、逕於十念、無他念想間雑、是名十念、又云十念相続者、是聖者一数之名耳、但能積念凝思、不縁他事、便業道成弁、亦未労記之頭数也、又云、若久行人念、多応依此、若始行人念者、記数亦好、此亦依聖教<已上> 有云、一心称念南無阿弥陀仏、逕此六字之頃、名一念也、云々  第五に、臨終の念相を明かさば、問ふ、下々品の人も、臨終に十念せば、即ち往生することを得といふ。言う所の十念とは、何等の念ぞ。答ふ。綽和尚の云、
ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは惣相、もしは別相、所縁に随ひて観じ、十念を逕て、他の念想の間雑することなきを、これを十念と名づく。また十念相続と云うは、これ聖者の一の数の名のみ。ただ能く念を積み思を凝らして、他事を縁ぜざれば、便ち業道成弁ず。またいまだ労しくこれが頭数を記さざるなり。また云く、もし久行の人の念ならば、多くこれに依るべきも、もし始行の人の念は、数を記すもまたよし好し。これまた聖教に依る。
と。<已上>あるが云く、
一心に南無阿弥陀仏と称念する、この六字を逕るのあいだを、一念と名づくるなり
と云々。
 問、弥勒所問経十念往生、彼一々念深広、如何今云、十声念仏得往生耶、答、諸師釈所不同、寂法師云、此説専心称仏名時、自然具足如是十、非必一々別縁慈等、亦非数彼慈等為十、云何不別縁、而具足十、如欲受戒称三帰時、雖不別縁離殺等事、而能具得離殺等戒、当知、此中道理亦尓、又可具足十念称南無阿弥陀仏者、謂能具足慈等十念、称南無仏、若能如是、随所称念、若一称若多称、皆得往生、感法師云、各是聖教、互説往生浄土法門、皆成浄業、何因将彼為是、斥此言非、但自不解経、亦乃惑諸学者、迦才師云、此之十念、現在時作、観経中十念、臨命終時作<已上> 意同感師 問ふ。弥勒所問経の十念往生は、かの一々の念、深広なり。いかんぞ、十声の念仏もて往生することを得といふや。
答ふ。諸師の釈する所、同じからず。寂法師の云く。
これ、専心に仏の名を称するとき、自然にかくの如き十を具足すと説くなり。必ずしも一々、別に慈等を縁ずるにはあらず。またかの慈等を数えて十とせるにもあらず。いかんぞ、別に縁ぜざるに、しかも十を具足するとならば、戒を受けんと欲して三帰を称ふる時、別に離殺等の事を縁ぜずといへども、しかも能く具に離殺等の戒を得るが如し。当に知るべし、この中の道理もまたしかり。また十念を具足して南無阿弥陀仏と称すべしといふは、能く慈等の十念を具足して、南無仏と称ふることを謂ふなり。もし能くかくの如くならば、称念する所に随ひて、もしは一称、もしは多称、皆往生することを得。
と。感法師の云く、
おのおのこれ聖教にして、互に往生浄土の法門を説き、皆浄業を成す。何に因りてか、かれを将て是となし、これを斥けて非と言わん、ただ自ら経を解らず、また乃ちもろもろの学者を惑わすなり。
と。迦才師の云く、
この十念は、現在の時に作すなり。観経の中の十念は、命終の時に臨んで作すなり
と<已上> 意は感師に同じ。
 問、双観経云、乃至一念得往生、此与十念、云何乖角[p286]、答、感師云、極悪業者、満十得生、余者乃至一念亦生 問ふ。双観経には、「乃至一念せば往生することを得」と云ふ。これと十念と、いか云何乖角するや。
答ふ。感師の云く、
極悪業の者は、十を満して生ずることを得、余の者は、乃至一念にてもまた生まる。
と。
 問、生来作諸悪、不修一善者、臨命終時、纔十声念、何能滅罪、永出三界、即生浄土、答、如那先比丘問仏経言、時有弥蘭王、問羅漢那先比丘言、人在世間、作悪至百歳、臨死時念仏、死後生天、我不信是説、復言、殺一生命、死即入泥梨中、我亦不信也、比丘問王、如人持小石、置在水中、石浮耶没耶、王言、石没也、那先言、若今持百丈大石、置在船上没不、王言不没、那先言、船中百丈大石、因船不得没、人雖有本悪、一時念仏、不没泥梨、便生天上、何不信耶、其小石没者、如人作悪、不知経法、死後便入泥梨、何不信耶、王言、善哉善哉、比丘言、如両人倶死、一人生第七梵天、一人生罽賓国、此二人遠近雖異、死則一時到、如有一双飛鳥、一於高樹上止、一於卑樹上止、両鳥一時倶飛、其影倶到耳、如愚人作悪得殃大、智人作悪得殃少、如焼鉄在地、一人知焼一人不知、両人倶取、然不知者手爛大、知者少壊、作悪亦尓、愚者不能自悔故、得殃大、智者作悪知不当故、為日自悔、故其罪少  問ふ。生れてよりこのかた、ころもろの悪を作りて一善をも修せざる者、命終の時に臨み、纔かに十声念ずるのみにて、なんぞ能く罪を滅ぼし、永く三界を出でて、即ち浄土に生まれん。
答ふ。那先比丘問仏経に言ふが如し。
時に弥蘭王あり、羅漢那先比丘に問ひて言く、「人、世間にありて悪を作り百歳に至らんに、死の時に臨んで念仏せば、死後、天に生るといふも、我この説を信ぜず」と。また言く、「一の生命を殺さば、死して即ち泥梨ないりの中に入るといふも我また信ぜず」と。比丘、王に問ふ。「もし人小石を持ちて、水中に置在かば、石は浮ぶや没むや」と。、王言く、「石は没むなり」と。那先言く、「もし今百丈の大石を持ちて、船の上に置在くに、没むやいなや」、王言く「没まず」と。那先言く、「船の中の百丈の大石は、船に因りて没むことを得ざるなり。人、本の悪ありといへども、一時、仏を念ずれば、不没泥梨に没まずして、便ち天上に生まるること、なんぞ信じぜらんや」と。その小石の没むは、人の悪を作り、経法を知らずして、死後便ち泥梨に入るがごとし。なんぞ信ぜらんや」と。王言く、「善かな、善かな」と。比丘の言く、「両人倶に死して、一人は第七の梵天に生れ、一人は罽賓国に生るとせんに、この二人は、遠近異なりといへども、死せしときは則ち一時に到りしが如し。一双の飛鳥ありて、一は高き樹の上に止り、一は卑き樹の上に止らんに、両鳥一時に倶に飛ばんには、その影倶に到らんが如きのみ。愚人悪を作ればつみを得ること大きく、智人、悪を作せばつみを得ること少なきが如し。、焼けたる鉄の地にあらんに、一人は焼けたりと知り一人は知らずして、両人倶に取らば、しかも知らざる者は手爛るること大きく、知れる者は少しく壊れんが如し。作悪を作るもまたしかり。愚者は能自ら悔ゆることあたわざるが故に、殃を得ること大きく、智者は、悪を作りて不当なるを知るが故に、日に自ら悔ゆることをなす。故にその罪少し」と。
<已上> 十念滅衆罪、乗仏悲願船、須臾得往生、其理亦可然、又十疑釈云、と。<已上> 十念にもろもろの罪を滅し、仏の悲願の船に乗りて、須臾にして往生することを得るも、その理またしかるべし。また十疑に釈して云く、
今以三種道理校量、軽重不定、不在時節久近多少、云何為三、一者在心、二者在縁、三者在決定 在心者、造罪之時、従自虚妄顛倒心生、念仏心者、従善知識、聞説阿弥陀仏真実功徳名号心生、一虚一実、豈得相比、譬如万年暗室日光暫至、而暗頓除、豈有久来之暗、不肯滅耶、在縁者、造罪之時、従虚妄痴暗心縁虚妄境界顛倒心生、念仏之心、従聞仏清浄真実功徳名号、縁無上菩提心生、一真一偽、豈得相比、譬如有人被毒箭中、箭深毒𥕺傷肌致骨、一聞滅除薬鼓声、即毒箭除、豈以深毒、不肯出也、在決定者、造罪之時、以有間心有後心也、念仏之時、以無間心無後心、遂即捨命、善心猛利、是以即生、譬如十囲之索千夫不制、童子揮剣須臾両段、又如千年積草以大豆火焚之時即尽、又如有人一生已来、修十善業応得天生、臨終之時、起一念決定邪見、即堕阿鼻地獄、悪業虚妄、以猛利故、不能排一生善業、令堕悪道、豈況臨終猛利心念仏、真実無間善業、不能排無始悪業、不得生浄土者、無有是処<已上>又安楽集、以七喩顕此義、
今、三種の道理を以て校量するに、軽重不定なり。不在時節の久近・多少にはあらず。いかんが三とする。一には心にあり、二には縁あり、三には決定にあり。
心にありとは、罪を造る時は自らの虚妄顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、善知識に従ひて阿弥陀仏の真実功徳の名号を説くを聞く心より生ず。一は虚にして一は実なり。あに相比ぶることを得んや。譬へば、万年の暗室に日光暫くも至らば、暗頓に除こるが如し。あに久来の暗なればとて、不肯滅することをがえんぜざることあらんや。
縁にありとは、罪を造る時は、虚妄痴暗の心の、虚妄の境界を縁ずる顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、仏の清浄真実の功徳の名号を聞いて、無上菩提を縁ずる心より生ずる。一は真にして一は偽なり。あに相比ぶことを得んや。譬へば、人ありて、毒の箭に中てられんに、箭は深く毒は𥕺いたましく肌を傷つけ、致骨に到らんも、一たび滅除薬の鼓の声を聞かば、即ち毒の箭除こるが如し。あに深き毒なるを以て、出ることを肯んぜざることあらんや。
決定にありとは、罪を造る時は、有間心・有後心を以てす。仏を念ずる時は、無間心・無後心を以てし、遂に即ち命を捨つるまで、善心猛利なり。ここを以て即ち生ず。譬へば、十囲の索は千夫も制せざれども、童子剣を揮はば須臾に両段するが如し。また千年の積草も、大豆ばかりの火を以てこれを焚かば、時に即ち尽くるが如し。また人ありて、一生より已来このかた、十善業を修して天に生るることを得べきに、臨終の時、一念決定の邪見を起さば、即ち阿鼻地獄に堕するが如し。
悪業の虚妄なるすら以猛利なるを以ての故に、一生の善業を排ひて、悪道に堕せしむ。あにいはんや、臨終に猛利の心をもて念仏する。真実の無間の善業をや。無始の悪業を排ふことあたわずして、不得生浄土に生まるることを得ずといはば、このことわりあることなけん。
と。<已上>また安楽集には、七喩を以てこの義を顕す。
 一少火喩、如前、二躄者、寄載他船、因風帆勢、一日至千里、三貧人、獲一瑞物而以貢王、王慶重賞、斯須之頃、富貴盈望、四劣夫、若従輪王行、便乗虚空、飛騰自在、五十囲索喩、如前、六鴆鳥入水、魚蚌斯斃皆〔死〕、犀角触諸、死者還活、七黄鵠喚子安、子安子還活、豈可得言墳下千齢、決無可甦也、一切万法、皆有自力他力、自摂他摂、千開万閉、無量無辺、豈得以有碍之識、疑彼無碍之法乎、又五不思議中、仏法最不可思議、豈以三界繋業為重、疑彼少時念法為軽<已上略抄>
一には少火の喩。前の如し。二にはあしなえたる者も、他の船に寄載すれば、風帆の勢に因り、一日にして千里に至る。三には貧人、獲一の瑞物を獲て以て王に貢つるに、王慶びて重く賞でて、斯須の頃に、富貴となり望みを盈す。、四には劣夫も、もし輪王の行に従わば、便ち虚空に乗じて、飛騰すること自在なり。五には、十囲の索の喩。前の如し。六には鴆鳥ちんちょう、水に入れば、魚・蚌ここに斃れて皆〔死し〕、犀角もてこれに触るれば、死せる者もまた活く。七には、黄鵠、子安を喚ぶに、子安また活く。あに墳の下に千齢なるものも、決して甦えるべきことなしと言うことを得べけんや。一切の万法は、皆自力・他力・自摂・他摂ありて、千開・万閉なること無量無辺なり。あに、有碍の識を以て、かの無碍の法を疑うことを得んや。また五の不思議の中には、仏法最も不可思議なり。あに三界の繋業を以て重しとなし、疑かの少時の念法を疑ひて軽しとせんや。
と。<已上略抄>
 今加之云、一栴檀樹出成時、能変三十由旬伊蘭林、普皆香美、二用師子筋、以為琴絃、音声一奏、一切余絃、悉皆断壊、三一斤石汁、能変千斤銅為金、四金剛雖堅固、以羖羊角扣之、則潅然氷泮<已上、滅罪譬> 五雪山有草、名為忍辱、牛若食者、即得醍醐、六於沙訶薬、但有見者、得寿無量、乃至、念者得宿命智、七孔雀聞雷声、即得有身、八尸利沙見昴星、則出生菓実<已上、生善譬> 九以住水宝、瓔珞其身、入深水中、而不没溺、十沙礫雖小、尚不能浮、磐石雖大、寄船能浮<已上惣喩> 諸法力用、難思如是、念仏功力、准之莫疑  問、臨終心念、其力幾許、能成大事、答、其力勝百年業、故大論云、是心雖時頃少、而心力猛利、如火如毒、雖少能成大事、是垂死時心、決定勇健故、勝百歳行力、是後心名為大心、以捨身及諸根事急故、如人入陣不惜身命、名為勇健、如阿羅漢、捨是身著故、得阿羅漢道<已上> 由此安楽集云、一切衆生、臨終之時、刀風解形、死苦来逼、生大怖畏、乃至、便得往生  今、これに加へて云く。一には、栴檀の樹出成する時は、能く三十由旬の伊蘭の林を変じて、普く皆香美ならしむ。二には、師子の筋を用ひて、以て琴の絃とするに、音声一たび奏すれば、一切の余の絃、悉く皆断壊す。三には、一斤の石汁、能く千斤の銅を変じて金となす。四には、金剛は堅固なりといへども、羖羊の角を以てこれを扣けば、則ち潅然として氷のごとくく。<已上は滅罪の譬> 五には、雪山に草あり、名づけて忍辱となす。牛もし食すれば、即ち醍醐を得。六には沙訶薬に於て、ただ見ることある者は寿無量なることを得。乃至、念ずる者は宿命智を得。七には、孔雀、雷の声を聞くときは、即ち身ることあることを得。八には、尸利沙、昴星を見れば、則ち菓実を出生す。<已上は生善の譬> 九には、住水宝を以てその身に瓔珞とすれば、深き水の中に入るとも、しかも没溺せず。十には、沙礫は小なりといへどもなほ浮ぶことあたわず。磐石は大なりといへども、船に寄すれば能く浮ぶ。<已上は惣喩> 
諸法の力用、思ひ難きことかくの如し。念仏の功力も、これに准じて疑ふことなかれ。  問ふ。臨終の心念、その力、幾許なればか、能く大事を成するや。
答ふ。その力、百年の業にも勝る。故に大論に云く、
この心は時の頃少しといへども、しかも心力猛利なること、火の如く毒の如くなれば、少しといへども能く大事を成す。これ死に垂んとする時の心、決定して勇健なるが故に、百歳の行力に勝れり。この後心と名づけて大心となす。身及び諸根を捨つる事急なるを以ての故なり。人の陣に入りて身命を惜しまざるを、名づけて勇健となすが如し。阿羅漢の如きは、この身の著を捨つるが故に阿羅漢道を得。
と。<已上> これに由りて、安楽集に云く、
一切衆生は、臨終の時、刀風形を解き、死苦来り逼るに、大いなる怖畏を生じ、乃至、便ち往生を得。
と。
 問、深観念力、滅罪可然、云何称念仏号、滅無量罪、若尓、以指月指、此指応能破闇、答、綽和尚釈云、諸法万差、不可一概、自有名即法、自有名異法、名即法者、如諸仏菩薩名号、禁呪音辞、修多羅章句等是也、如禁呪辞曰、日出東方乍赤乍黄、仮令酉亥行禁患者亦愈、又如有人被狗所噛、炙虎骨熨之患者即愈、或時無骨、好攋掌磨之、口中喚言虎来虎来、患者亦愈、或復有人、患脚転筋、炙木瓜杖熨之、患者即愈、或無木瓜、炙手磨之、口喚木瓜、患者亦愈也、名異法者、如以指指月是、<已上> 要決云、諸仏願行、成此果名、但能念号、具包衆徳、故成大善[p292]<已上、彼文引浄名成実文、具如上助念方法>  問ふ。深き観念の力の、罪を滅することは然るべし。いかんぞ、云何称念仏号を称念するに無量の罪を滅するや。もししからば、指を以て月を指すに、この指能く闇を破すべし。
答ふ。綽和尚、釈して云く、
諸法は万差あり。一概すべからず。自ら名の法に即せるあり。自ら名の法に異れるあり。名の法に即せるとは、諸仏・菩薩の名号、禁呪の音辞、修多羅の章句等の如き、これなり。禁呪の辞に、「日出でて、東方乍ち赤く乍ち黄なり」と曰はんに、仮令たとい酉亥に禁を行ふも患へる者また愈ゆるがごとし。また人ありて、狗の所噛を被らんに、虎の骨を炙りてこれを熨ふれば患へる者即ち愈ゆるも、或は時に骨なくは、好く掌を攋げてこれを磨り、口の中に喚びて「虎来れ、虎来れ」と言わば、患へる者また愈ゆるが如し。或はまた人ありて、脚の転筋を患わんに、炙木瓜の杖を炙りてこれを熨ふれば、患へる者即ち愈ゆるも、或は木瓜なきときは、手を炙りこれを磨り、口に「木瓜」喚ばんに、患へる者また愈ゆるなり。名の法に異なるとは、指を以て月を指すが如き、これなり。
と。<已上> 要決云く、
諸仏は願・行もてこの果名を成じたまへば、ただ能く号を念ぜば、具にもろもろの徳を包む。故に大善と成る。
<已上。かの文には浄名との実文を引けり。具には上の助念の方法の如し>
 問、若下々品、造五逆罪、由十念仏、得往生者、云何、仏蔵経第三云、大荘厳仏滅後、有四悪比丘、捨第一義無所有畢竟空法、貪楽外道尼犍子論、是人命終、堕阿鼻獄、仰臥伏臥、左脇臥右脇臥、各九百万億歳、於熱鉄上焼燃、燋爛死已、更生灰地獄大灰地獄活地獄黒縄地獄、皆如上歳数受苦、於黒縄死、還生阿鼻獄、彼家出家親近、并諸檀越、凡六百四万億人、与此四師倶生倶死、在大地獄、受諸焼煮、劫尽転生他方地獄、劫成還生此間地獄、久々免地獄生人中、五百世従生而盲、後値一切明王仏出家、十万億歳、勤修精進、如救頭燃、不得順忍、況得道果、命終還生阿鼻地獄、於後値九十九億仏、不得順忍、何以故、仏説深法、是人不信、破壊違逆、破毀賢聖持戒比丘、出其過悪、破法因縁、法応当尓<已上、略抄、四比丘者、苦岸比丘、薩和多比丘、将去比丘、跋難陀比丘> 十万億歳、如救頭燃、尚不滅罪、還生地獄、如何念仏、一声十声、即得滅罪、往生浄土、答、感師釈云、念仏由五縁故滅罪、一発大乗心縁、二願生浄土縁、小乗人、不信十方仏故、三阿弥陀仏本願縁、四念仏功徳縁、彼比丘但作四念処観故、五仏威力加持縁、是故滅罪、得生浄土、彼小乗人不尓故、不能滅罪<略抄>  問ふ。もし下々品の、五逆罪を造れるも、十たび仏を念ずるに由りて、往生することを得といはば、いかんぞ、仏蔵経の第三に、
大荘厳仏の滅後に、四の悪比丘ありき。第一義・無所有・畢竟空の法を捨てて、外道尼犍子の論を貪楽せり。この人命終りて、阿鼻獄に堕ち、仰臥・伏臥・左脇臥・右脇臥なること、おのおの九百万億歳、熱鉄の上に於て焼燃し、燋爛して死して已り、更に灰地獄・大灰地獄・活地獄・黒縄地獄に生まれ、皆上の如き歳数にわたり苦を受けたり。黒縄より死して、また阿鼻獄に生まれたり。かの、家と出家にして親近せしもの、并にもろもろの檀越、およそ六百四万億の人は、この四師と倶に生れ倶に死し、大地獄にありて、もろもろの焼煮を受けたり。劫尽きしとき他方の地獄にに転生し、劫成りてまたこの間の地獄に生まれたり。久々にして地獄を免れ人中に生まれたるも、五百世のあひだ生るること盲なりき。後に一切明王仏に値ひたてまつりて出家し、十万億歳、勤修精進すること頭燃を救ふ如くせしも、順忍をすら得ざりき。いはんや道果を得んことをや。命終りてまた阿鼻地獄に生まれたり。後に於て九十九億の仏に値ひたてまつりしも、順忍をすら得ざりき。何を以ての故に。仏の、深法を説きたまひしとき、この人、信ぜずして、破壊し違逆し、賢聖・持戒の比丘を破毀して、その過悪を出せる破法因縁により、法として応にしかるべきなり。
と云えるや。<已上、略抄。「四の比丘」とは、苦岸比丘・薩和多比丘・将去比丘・跋難陀比丘なり> 十万億歳、頭燃を救うが如くせしも、なほ罪を滅せずして、また地獄に生まれたりといふ。いかんぞ、念仏すること一声・十声して即ち罪を滅し、浄土に往生することを得んや。
答ふ。感師、釈して云く、
念仏は五の縁に由るが故に罪を滅す。一には、大乗の心を発すの縁。二には、浄土を願生するの縁。小乗の人は、十方の仏のあるを信ぜざるが故に。三には、阿弥陀仏も本願の縁。四には、念仏の功徳の縁。かの比丘はただ四念処観を作すのみなるが故に。五には、仏の威力もて加持したまふの縁。この故に罪を滅して浄土に生まるることを得。かの小乗の人は、しからざるが故に罪を滅することあたはず。
と。<略抄>
 問、若尓云何、双観経説十念往生、云唯除五逆誹謗正法、答、智憬等諸師云、若唯造逆者、由十念故得生、若造逆罪、亦法謗者、不得往生、有云、造五逆不定業、得往生、造五逆定業、不往生、如是有十五家釈、感法師不用諸師釈、自云、若不造逆人、〔不〕論念之多少、一声十声、倶生浄土、若造逆人、必須満十、闕一不生、故言除<已上>問ふ。もししからば、いかんぞ、双観経に十念往生を説いて、「ただ五逆と、正法を誹謗するとをば除く」といへるや。
答ふ。智憬等の諸師の云く、
もしただ逆を造るのみならば、十念に由るが故に生まるることを得。もし逆罪を造り、また法を謗りし者は、往生することを得ず。
と。あるが云く、
五逆の不定業を造れるものは往生することを得るも、五逆定業を造れるものは往生せず。
と。かくの如く十五家の釈あり。感法師は、諸師の釈を用ひずして、自ら云く、
もし逆を造らざる人は、念の多少を論ぜず、一声・十声、倶に浄土に生まる。もし逆を造れる人は必ず十を満たすべし。一をも闕かば生れず。故に「除く」と言えるなり。
と。<已上>
今試加釈、余処遍顕往生種類、本願唯挙定生之人、故云、不尓不取正覚、余人十念、定得往生、逆者一念、定不能生、逆十余一、皆是不定、故願唯挙余人十念、余処兼取逆十余一、此義未決、別応思択 今、試みに釈を加へれば、余処には遍く往生の種類を顕せども、本願にはただ定生の人のみ挙げしなり。故に、「しからずは、正覚を取らじ」と云へり。余人の十念は定んで往生することを得。逆者の一念は定んで生るることあたわず。逆の十と余の一とは、皆これ不定なり。故に願にはただ余人の十念を挙げ、余処には、兼ねて逆の十と余の一とを取れり。この義いまだ決せず。別して思択すべし。
 問、逆者十念、何故不定、答、由宿善有無、念力別故、又臨終尋常、念時別故 問ふ。逆者の十念、何が故に不定なるや。答ふ。宿善の有無に由りて念力別なるが故に。また、臨終と尋常と、念ずる時が別なるが故に。
 問、五逆是順生業、報時倶定、云何得滅、答、感師釈之云、九部不了教中、為諸不信業果凡夫、密意説言、有定報業、於諸大乗了義教中説、一切業悉皆不定、如涅槃経第十九巻云、耆婆為阿闍世王、説懺悔法、罪得滅、又云、臣聞仏説、修一善心、破百種悪、如少毒薬能害衆生、小善亦尓、能破大悪、又三十一云、善男子、有諸衆生、於業縁中、心軽不信、為度彼故、作如是説、善男子、一切作業、有軽有重、軽重二業、復各有二、一決定、二不決定、又言、或有重業可得作軽、或有軽業可得作重、有智之人、以智慧力、能令地獄極重之業、現世軽受、愚痴之人、現世軽業、地獄重受、阿闍世王、懺悔罪已、不入地獄、鴦堀摩羅、得阿羅漢、瑜伽論説、未得解脱、説決定業、已得解脱、名不定業、如是等諸大乗経論、説五逆罪等、皆名不定、悉得消滅<転重軽受相、具出放鉢経> 問ふ。五逆はこれ順生業なり。報と時と倶に定まれり。いかんぞ滅することを得んや。
答ふ。感師、これを釈して云く、
九部の不了教の中に、為もろもろの業果を信ぜざる凡夫の為に、密意により説いて、「定報の業あり」と言へり、もろもろの大乗了義教の中に於ては、「一切の業は悉く皆不定なり」と説く。涅槃経の第十九巻に云ふが如し。耆婆、阿闍世王の為に、懺悔の法を説いて、「罪は滅することを得」と。また云く、「臣、仏の説を聞くに、「一の善心を修むれば、破百種の悪を破す」と。少かの毒薬の、能く害衆生を害するが如し。小善もまたしかり。能く大悪を破す」と。また三十一に云く、「善男子、もろもろの衆生ありて、業縁の中に於て心軽んじて信ぜざらんには、彼を度せんがための故に、かくのごとき説を作す。善男子、一切の作業に軽あり重あり。軽重の二業に、またおのおの二あり。一には決定、二には不決定なり」と。また言く、「或は重業の軽と作し得べきものあり。或は軽業の、重と作し得べきものあり。有智の人は、智慧の力を以て、能く地獄極重の業をして、現世に軽く受けしむるも、愚痴の人は、現世の軽業を地獄に重く受く」と。阿闍世王は罪を懺悔し已りて、地獄に入らず。鴦堀摩羅は、阿羅漢を得たり。瑜伽論に説かく、「いまだ解脱を得ざるを、決定業と説き、已に解脱を得たるを、不定業と名づく」と。かくの如き等のもろもろの大乗の経・論に五逆罪等を皆不定と名づけ、悉く消滅することを得と説けり。
と。<重きを転じて軽く受くるの相は、具さには放鉢経に出でたり>
 問、引所文云、智者転重軽受、下品生人、但十念已、即生浄土、何処軽受、答、双観経説彼土胎生者云、五百歳中、不見三宝、不得供養修諸善本、而以此為苦、雖有余楽、猶不楽彼処<已上> 准之、応以七々日六劫十二劫、不見仏不聞法等、為軽受苦耳  問ふ。引ける所の文に云く、「智者は重きを転じて軽く受く」と。下品生の人の、ただ十念し已りて即ち浄土に生るるは、いづれの処にして軽く受くるや。
答ふ。双観経にかの土の胎生の者を説いて云く、
五百歳の中、三宝を見たてまつらず、供養してもろもろの善本を修することを得ず。しかもこれをもって苦となし、余の楽ありといえどもなほかの処を楽はず。
と。<已上> これに准ずるに、応に七々日・六劫・十二劫にわたり、仏を見たてまつらず、法を聞かざる等を以て、軽く苦を受くとなすべきのみ。
 問、為如臨終一念仏名、能滅八十億劫衆罪、尋常行者、亦可然耶、答、臨終心力強、能滅無量罪、尋常称名、不応如彼、然若観念成、亦滅無量罪、若但称名、随心浅深、得其利益、応有差別、具如前利益門 問ふ。為如し臨終に一たび仏の名を念じて、能く八十億劫の衆罪を滅すとせば、尋常の行者もまたしかるべきや。
答ふ。臨終の心は、力強ければ能く無量の罪を滅す。尋常に名を称ふるも、彼が如くなるべからず。しかれども、もし観念成ずればまた無量の罪を滅す。もしただ名を称うるのみならば、心の浅深の随にその利益を得ること、応に差別のあるべし。具さには前の利益門の如し。
 問、何以得知浅心念仏亦有利益、答、首楞厳三昧経云、如有大薬王、名曰滅除、若闘戦時、以用塗鼓、諸被箭射、刀矛所傷、得聞鼓声、箭出毒除、如是菩薩、住首楞厳三昧時、有聞名者、貪恚痴箭、自然抜出、諸邪見毒、皆悉除滅、一切煩悩、不復動発<已上、観見諸法真如実相、見凡夫法仏法不二、是名修習首楞厳三昧> 菩薩既尓、何況仏、聞名既尓、何況念、応知浅心念、利益亦不虚 問ふ。何を以てか、浅心の念仏にもまた利益ありと知ることを得るや。
答ふ。首楞厳三昧経に云く、
大薬王あり、名づけて滅除と曰ふ。もし闘戦の時、以用もって鼓に塗るに、もろもろの被箭に射られた刀・矛に傷つけられんも、得聞鼓の声を聞くことを得ば、箭出でて毒除こるが如し。かくの如く菩薩の首楞厳三昧に住せる時、名を聞くことある者は、貪・恚・痴の箭、自然に抜け出でて、もろもろの邪見の毒、皆悉く除滅し、一切の煩悩、また動発せず。
と。<已上。諸法の真如・実相を観見し、凡夫法と仏法の不二を見る、これを首楞厳三昧を修習すと名づく> 菩薩既にしかり。いかにいわんや仏をや。名を聞くこと既にしかり。いかにいはんや、念ぜんをや。応に知るべし、浅心に念ずるも利益また虚しからざるを
 第六、麁心妙果者、問、若為菩提、於仏作善、証得妙果、理必可然、若為人天果、修善根云何、答、或染或浄、於仏修善、雖有遠近、必至涅槃、故大悲経第三、仏告阿難言、若有衆生、楽著生死三有愛果、於仏福田、種善根者、作如是言、以此善根、願我莫般涅槃、阿難、是人若不涅槃、無有是処、阿難、是人雖不求涅槃楽、然於仏所、種諸善根、我説、是人必得涅槃 第六に、麁心そしん妙果みょうかとは、問ふ、もし菩提の為に、仏に於て善を作さば、妙果を証得すること、理必ず然るべし。もし人天の果の為に、善根を修せばいかん。
答ふ。或は染にあれ或は浄にあれ、仏に於て善を修せば、遠近ありといへども必ず涅槃に至る。故に大悲経の第三に、仏は阿難に告げて言へり。
もし衆生ありて、生死三有の愛果に楽著して、仏の福田に於て、善根を種えたらん者、かくの如きの言を作さん、「この善根を以て、願はくは我に般涅槃なからんことを」と。阿難、この人を、もし涅槃せずとせば、このことわりあることなけん。阿難、この人をもし涅槃を楽求せずといへども、しかも仏の所に於て、もろもろの善根を種えたれば、我は説く、この人は必ず涅槃を得と。
と。
 問、所作之業、随願感果、何楽世報、得出世果、答、業果之理、不必一同、以諸善業、廻向仏道、是即作業、随心而転、以鶏狗業、楽求楽天、是即悪見、夫令業転、是故、於仏修諸善業、意楽雖異、必至涅槃、故彼経挙譬言、譬如長者依時、下種於良田中、随時漑潅、常善護持、若是長者、於余時中、到彼田所、作如是言、咄哉種子、汝莫作種、莫生莫長、然彼種種、必応作果、非無果実<取意略抄>  問ふ。所作の業は願の随に果を感ず。何ぞ世報を楽ひて、出世の果を得るや。
答ふ。業果の理、必ずしも一同ならず。もろもろの善業を以て仏道に廻向するは、これ即ち作業なれば、心の随に転ず。鶏狗の業を以て天の楽を楽ひ求むるは、これ即ち悪見なれば、業をして転ぜしめず。この故に、仏に於てもろもろの善業を修せば、意楽異なりといへども必ず涅槃に至る。故に、かの経に譬を挙げて言く、
譬へば、如長者の、時に依りて種を良田の中に下ろし、時に随ひて漑潅し、常に善く護持せんに、もしこの長者、余の時の中に於て、かの田所に到りてかくの如きの言を作さん、「咄なるかな、種子。汝、種と作ることなかれ、生ずることなかれ、長ずることなかれ」と。しかれども、彼、種を種えつれば、必ず応に果を作るべく、果実なきことあらざるが如し
と。<取意略抄>
 問、彼於何時、得般涅槃、答、設雖久々輪廻生死、善根不亡、必得涅槃、故彼経云、仏告阿難、如捕魚師、為得魚故、在大池水、安置鉤餌、令魚呑食、魚呑食已、雖在池中、不久当出<乃至> 阿難、一切衆生、於諸仏所、得生敬信、種諸善根、修行布施、乃至発心、得一念信、雖復為余悪不善業之所覆障、堕在地獄畜生餓鬼<乃至> 諸仏世尊、以仏眼、観見此衆生発心勝故、従於地獄、抜之令出、既抜出已、置涅槃岸 問ふ。彼、いづれの時にか般涅槃を得るや。
答ふ。たとひ、久々に生死に輪廻すといへども、善根亡びずして必ず涅槃を得。故にかの経に云く、
仏、阿難に告げたまはく、「捕魚師、為得魚を得んが為の故に、大いなる池水にありて、鉤に餌を安置し、魚をして呑み食わしめんに、魚呑み食ひ已らば、池の中にありといへども、久しからずして当に出づべきが如し。<乃至> 阿難。一切の衆生、諸仏の所に於て、敬信を生ずることを得て、もろもろの善根を種え、布施を修行し、乃至、発心して、一念の信を得たらんには、また余の悪・不善業のために覆障せられて、地獄・畜生・餓鬼に堕在すといへども、<乃至> 諸仏世尊は、仏眼を以て、この衆生の発心の勝れたるを観見したまふが故に、地獄よりこれを抜きて出でしむ。既に抜き出だし已らば、涅槃の岸に置きたまふ。」と。
と。
 問、如此経意、以敬信故、遂得涅槃、若尓、但一聞応非涅槃因、既尓云何、華厳偈云、若有諸衆生、未発菩提心、一得聞仏名、決定成菩提、答、諸法因縁、不可思議、譬如孔雀聞雷震声、即得有身、又尸利沙果、先無形質、見昴星時、果則出生、足長五寸、依仏名号、即結仏因、亦復如是、従此微因、遂著大果、如彼尼狗陀樹、従芥子許種生枝葉、遍覆五百両車、浅近世法、猶難思議、何況出世甚深因果、唯応信仰、不可疑念  問ふ。この経の意の如くは、敬信をもっての故に、遂に涅槃を得るなり。もししからば、ただ一たび聞かんは、涅槃の因にあらざるべし。既にしからば、いかんぞ、華厳の偈に、
もしもろもろの衆生ありて いまだ菩提心を発さざらんも 一たび仏の名を聞くことを得んには 決定して菩提を成ぜん
と云えるや。
答ふ。諸法の因縁は不可思議なり。譬へば、孔雀の雷震の声を聞いて即ち身ることありを得、また尸利沙果の先には形質なかりしに、昴星を見る時、果則ち出生して、長さ五寸に足るが如し。仏の名号に依りて、即ち仏因を結ぶこともまたかくの如し。この微因より遂に大果を著す。かの尼狗陀樹の、従芥子許りの種より枝葉生じて、遍く五百両車を覆うが如し。浅近の世法すらまほ思議し難し。いかにいわんや、出世の甚深の因果をや。ただ応に信仰すべし。疑念すべからず。
 問、以染心縁於如来者、亦有益耶、答、宝積経第八、密迹力士、告寂意菩薩云、耆域医王、合集諸薬、以取薬草、作童子形、端正殊好、世之希有、所作安諦、所有究竟、殊異無比、往来周旋、住立安坐、臥寐経行、無所欠漏、所顕変業、或有大豪国王太子大臣百官貴姓長者、来到耆域医王所、視薬童子、与共歌戯、相其顔色、病皆得除、便致安穏寂静無欲、寂意且観、其耆域医王、療治世間、其余医師、所不能及也、如是寂意、若菩薩奉行法身、仮使衆生、婬怒痴盛、男女大小、欲想慕楽、即共相娯、貪欲塵労、悉得休息<信解観察無陰種諸入、則名奉行法身也> 奉行法身菩薩尚尓、何況証得法身仏耶  問ふ。染心を以て縁於如来を縁ずる者もまた益ありや。
答ふ。宝積経の第八に、密迹力士、寂意菩薩に告げて云く、
耆域医王、もろもろの薬を合わせ集め、以て取薬草を取りて、童子の形を作れり。端正殊好にして、世に希有なり。所作安諦にして、所有究竟し、殊異なること無比びなかりき。往来・周旋・住立・安坐・臥寐・経行、欠漏する所なく、顕変する所の業あり。或は大豪の国王・太子・大臣・百官・貴姓・長者ありて、耆域医王の所来到、薬童子を視て、与共に歌ひ戯れんに、その顔色を相れば、病皆除こることを得、便ち安穏寂静にして無欲なることを致せり。寂意、且く観ぜよ。その耆域医王の、世間を療治するは、その余の医師の及ぶあたわざる所なり。かくの如く、寂意、もし菩薩ありて法身を奉行せば、仮使衆生の、婬・怒・痴・盛んなるもの、男女・大小、欲想もて慕ひ楽ひ、即ち共に相娯しまんも、貪欲の塵労は悉く休息することを得ん。
と。<信解観察無陰種諸入なしと信解し観察すれば、則ち「名奉行法身を奉行す」と名づくるなり> 法身を奉行する菩薩してなほしかり。いかにいはんや法身を証得せる仏をや。
 問、如欲想縁有此利益、誹謗悪厭、亦有益耶、答、既云婬怒痴、明非唯欲想、又如来秘密蔵経下巻云、寧於如来、起不善業、非於外道邪見者所、施作供養、何以故、若於如来所、起不善業、当有悔心、究竟必得至涅槃、随外道見、当堕地獄餓鬼畜生  問ふ。欲想もて縁ずるに、この利益あるが如く、誹謗し悪み厭ふもまた益ありや。
答ふ。既に婬・怒・痴と云えり。明らけし、ただ欲想のみにあらず。また如来秘密蔵経の下巻に云く
むしろ如来に於て不善の業を起こすとも、外道・邪見の者の所に於て供養を施作することあらざれ。何を以ての故に。もし如来の所に於て、不善の業を起こさば、当に悔ゆる心ありて、究竟して必ず得至涅槃に至ること得べきも、随外道の見に随はば、当に堕地獄・餓鬼・畜生に堕つべければなり。
と。
 問、此文便違因果道理、亦復増於衆生妄心、如何以悪心、得大涅槃楽耶、答、以悪心故、堕三悪道、以一縁如来故、必至涅槃、是故、不違因果道理、謂、彼衆生堕地獄時、於仏生信、生追悔心、由此展転、必至涅槃<見大悲経> 染心縁如来利益、尚如是、何況浄心一念一称、仏大恩徳以之可知  問ふ。この文は便ち因果の道理に違ひ、亦また衆生の妄心を増さん。いかんぞ悪心を以て大涅槃の楽を得んや。答ふ。悪心を以ての故に、三悪道に堕ち、以一たび如来を縁ずるを以ての故に、必ず涅槃に至る。この故に、因果の道理に違はざるなり。謂く、「かの衆生、地獄に堕つる時、仏に於て信を生じ、追悔の心を生ず。これに由りて、展転して、必ず涅槃に至る。<大悲経に見ゆ> 染心に如来を縁ずる利益すらなほかくの如し。いかにいはんや、浄心に一念・一称せんをや。仏の大恩徳はこれを以て知るべし。
 問、諸文所説菩提涅槃、於三乗中、是何果耶、答、初雖随機得三乗果、究竟必至無上仏果、如法華経云、十方仏土中 唯有一乗法、無二亦無三、除仏方便説、又大経、明如来決定説義云、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易、又云、一切衆生、定得阿耨菩提故、是故我説、一切衆生、悉有仏性、又云、一切衆生、悉皆有心、凡有心者、定当得成阿耨菩提 問ふ。諸文に説く所の菩提・涅槃は、三乗の中に於てはこれいづれの果なりや。
答ふ。初には機に随ひて三乗の果を得といへども、究竟して必ず無上仏果に至る。法華経に云ふが如し、
十方仏土の中には ただ一乗の法のみありて 二もなくまた三もなし 仏の方便の説を除く
と。また大経に如来の決定の説義を明かして云く、
一切の衆生には、悉く仏性あり。如来は常住にして変易あることなし。
と。また云く、
一切の衆生は、定んで阿耨菩提を得べきが故に。この故に我は説く、一切衆生には、悉く仏性ありと。
と。また云く、
一切衆生には、悉く皆心あり。およそ心ある者は、定んで当に成阿耨菩提を得べし。
と。
 問、何故、諸文所説不同、或説一聞仏定成菩提、或説応勤修如救頭燃、又華厳偈云、如人数他宝、自無半銭分、於法不修行、多聞亦如是、答、若欲速解脱、不勤如無分、若期永劫因、一聞亦不虚、是故、諸文理不相違  問ふ。何が故に、諸文に説く所不同にして、或は説一たび仏を聞かば定んで菩提を成ずと説き、或は応に勤修すること、頭燃を救ふが如くすべしと説き、また華厳の偈には、
人、他の宝を数ふるも、自ら半銭の分なきが如し 法に於て修行せざれば 多聞なるもまたかくの如し
と云へるや。
答ふ。もし速やか解脱せんと欲ふも、勤めざれば分なきが如し。もし永劫の因を期さば、一たび聞くもまた虚しからず。この故に、諸文の理、相違せざるなり。
 第七、諸行勝劣者、問、往生業中、念仏為最、於余業中、亦為最耶、答、余行法中、此亦最勝、故観仏三昧経有六種譬、一云、仏告阿難、譬如長者将死不久、以諸庫蔵、委付其子、其子得已、随意遊戯、忽於一時、値有王難、無量衆賊、競取蔵物、唯有一金、乃是閻浮檀那紫金、重十六両、金鋋長短亦十六寸、此金一両価直、余宝百千万両、即以穢物、纏裹真金、置泥団中、衆賊見已、不識是金、脚践而去、賊去之後、財主得金、心大歓喜、念仏三昧、亦復如是、当密蔵之、  第七に、諸行の勝劣とは
問ふ、往生の業の中にありては、念仏を最となさんや。余業の中に於ても、また最となさんや。
答ふ。余の行法の中にても、これまた最勝なり。故に観仏三昧経には六種の譬あり。一に云く
仏、阿難に告げたまはく、「譬へば、長者の、まさに死せんとして久しからざるとき、もろもろの庫蔵を以てその子に委付す。その子得已りて、意の随に遊戯するに、忽ち一時に於て、王難あるに値ひ、無量の衆賊、競ひて蔵の物を取る。ただ一の金あり。乃ちこれ閻浮檀那紫金にして、重さ十六両、金鋋の長短もまた十六寸なり。この金一両の価直は、余の宝の百千万両なり。即ち穢物を以て、真金を纏ひ裹みて、泥団の中に置く。衆賊見已りて、これを金と識らず。脚に践みて去る。賊去りて後、財主、金を得て、心大いに歓喜するが如し。念仏三昧も亦またかくの如し。当にこれを密蔵すべし。
二云、譬如貧人執王宝印、逃走上樹、六兵追之、貧人見已、即呑宝印、兵衆疾至、令樹倒僻、貧人落地、身体散壊、唯金印在、念仏心印不壊、亦復如是、 と。二に云く、
譬へば如貧人、王の宝印を執り、逃走して樹に上る。六兵これを追ふに、貧人、見已りて、即ち宝印を呑む。兵衆疾く至りて、令樹をして倒に僻らしむ。貧人地に落ち、身体散壊して、ただ金印のみあるが如し。念仏の心印も壊れざることも亦またかくの如し。
三云、譬如長者将死不久、告一女子、我今有宝、宝中上者、汝得此宝、密蔵令堅、莫令王知、女受父勅、持摩尼珠及諸珍宝、蔵之糞穢、室家大小、皆亦不知、値世飢饉、持如意珠、随意即雨百味飲食、如是種々、随意得宝、念仏三昧、堅心不動、亦復如是 と。三に云く、
譬へば、長者のまさに死なんとして久しからざるとき、一の女子に告ぐ。「我に今、宝あり。宝の中の上れたるものなり。汝、この宝を得て、密蔵して堅からしめ、王をして知らしむることなかれ」と。女、父の勅を受け、摩尼珠及びもろもろの珍宝を持ちて、これを糞穢に蔵す。室家の大小、皆また知らず。世の飢饉に値ひ、如意珠を持ちて、意の随に即ち百味の飲食を雨らす。かくの如く種々に意の随に宝を得るが如し。念仏三昧の堅心不動なることも亦またかくの如し。
四云、譬如大旱不能得雨、有一仙人誦呪、神通力故、天降甘雨、地出涌泉、得念仏者、如善呪人 と。四に云く、
譬へば大旱にして雨を得ることあたわず。一の仙人ありて呪を誦するに、神通力の故に、天は甘雨を降らし、地は涌泉を出さんが如し。念仏を得る者は、善く呪する人の如し。
五云、譬如力士数犯王法、幽閉囹圄、逃到海辺、解髻明珠、持雇船師、到於彼岸、安穏無懼、念仏行者、如大力士、挽心王鎖、到彼慧岸 と。五に云く、
譬へば、力士、しばしば王法を犯して、囹圄に幽閉せらるるに、逃れて海辺に到り、髻の明珠解きて、持ちて船師を雇ひ、彼岸に到りて、安穏にして懼れなきが如し。念仏を行ずる者は、大力士の如し。心王の鎖を挽れて、彼の慧の岸に到る。
と。
六云、譬如劫尽大地洞燃、唯金剛山不可摧破、還住本際、念仏三昧、亦復如是、行是定者、住過去仏実際海中<已上略抄> 又般舟経問事品、説念仏三昧云、常当習持、常当守不復随余法、諸功徳中、最尊第一<已上> と。六に云く、
譬へば劫尽に、大地洞燃するに、ただ金剛山のみ摧破すべからず、還りて本際に住まるが如し。念仏三昧も亦またかくの如し。この定を行ずる者は、過去仏の実際の海の中に住す。
と。<已上略抄>また般舟経の問事品に、念仏三昧を説いて云く、
常に当に習ひ持つべし。常に当に守りて不また余の法に随はざるべし。もろもろの功徳の中に、最尊第一なり。
と。<已上>
 又至不退転位、有難易二道、言易行道、即是念仏、故十住婆沙第三云、如世間道、有難有易、陸道歩行則苦、水道乗船則楽、菩提道亦如是、或有勤行精進、或有以信方便易行、疾至阿惟越致<乃至> 阿弥陀等仏 及諸大菩薩、称名一心念、亦得不退転<已上> 文中挙過去現在一百余仏、弥勒金剛蔵、浄名無尽意、跋陀婆羅、文殊妙音、獅子吼香象、常精進観音勢至等、一百余大菩薩、其中広讃弥陀仏也、於諸行中、唯念仏行、易修証上位、知是最勝行  また不退転の位に至る難易の二道あり。易行道と言うは、即ちこれ念仏なり。故に十住婆沙の第三に云く、
世間の道に難あり易あり。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩提の道もまたかくの如し。或は勤行精進のものあり、或は信方便易の易行を以て、疾く至阿惟越致に至るものあり<乃至> 阿弥陀等の仏 及びもろもろの大菩薩の、名を称し一心に念ずるも、また不退転を得
と。<已上> 文の中に、過去・現在の一百余の仏、弥勒・金剛蔵・浄名・無尽意・跋陀婆羅・文殊・妙音・獅子吼・香象・常精進・観音・勢至等の一百余の大菩薩を挙げ、その中に広く弥陀仏を讃めたてまつれるなり。諸行の中に於て、ただ念仏の行のみ修し易くして、上位を証す。知んぬ、これ最勝の行なることを。
 又宝積経九十二云、若有菩薩、多営衆務、造七宝塔、遍満三千大千世界、如是菩薩、不能令我而生歓喜、亦非供養恭敬於我、若有菩薩、於波羅蜜相応之法、乃至、受持一四句偈、読誦修行、為人演説、是人乃為供養於我、何以故、諸仏菩提、従多聞生、不従衆務而得生也<乃至> 若一閻浮提、営事菩薩、於一読誦修行演説菩薩之所、応当親近供養承事、若一閻浮提、読誦修行演説諸菩薩等、於一勤修禅定菩薩、亦当親近供養承事、如是善業、如来随喜、如来悦可、若於勤修智慧菩薩、承事供養、当獲無量福徳之聚、何以故、智慧之業、無上最勝、出過一切三界所行  また、宝積経の九十二に云く、
もし菩薩ありて、多く衆務を営み、七宝の塔を造りて、遍く三千大千世界を満さんに、かくの如き菩薩は、我をして歓喜を生ぜしむることあたはず。また我を供養し恭敬するにもあらず。もし菩薩ありて、波羅蜜相応の法に於て、乃至、一の四句の偈を受持し、読誦し修行して、人の為に演説せん。この人は、乃ち我を供養すとなす。何を以ての故に。諸仏の菩提は、多聞より生じて、不従衆務より生ずることを得ざれなり。<乃至> もし一閻浮提の、営事の菩薩は、一の、読誦し修行し演説する菩薩の所に於ては、応当に親近し供養し承事しょうじすべし、もし一閻浮提の、読誦し修行し演説するもろもろの菩薩等は、一の、禅定を勤修する菩薩に於てもまた当に親近し供養し承事すべし。かくの如き善業を如来は随喜し、如来は悦可したまふ。もし智慧を勤修する菩薩に於て、承事し供養せば、当に獲無量の福徳の聚を獲べし。何を以ての故に。智慧の業は、無上最勝にして、一切の三界の所行を出過すればなり。
と。
大集月蔵分偈云、若人百億諸仏所、於多歳数常供養、若能七日在蘭若、摂根得定福多彼<乃至> 閑静無為仏境界、於彼能得浄菩提、若人謗彼住禅者、是名毀謗諸如来、若人破塔多百千、及以焚焼百千寺、若有毀謗住禅者、其罪甚多過於彼、若有供養住禅者、飲食衣服及湯薬、是人消滅無量罪、亦不堕於三悪道、是故我今普告汝、欲成仏道常在禅、若不能住阿蘭若、応当供養於彼人<已上> 汎爾禅定、尚既如是、況念仏三昧、是王三昧耶 と。大集月蔵分の偈に云く、
もし人百億の諸仏の所にて、歳くの歳数に於て常に供養せんに、もし能く七日、蘭若らんにゃにありて、根を摂めて定を得ば、福は彼よりも多からん<乃至> 閑静無為なるは仏の境界なり かしこに於て能く浄菩提を得 もし人、かの住禅の者を謗らば これをもろもろの如来を毀謗すと名づく もし人、破塔を破すること多百千、及以び百千寺を焚焼せんに もし住禅の者を毀謗することあらば その罪甚だ多くして彼より過ぎたり もし住善の者に供養するに 飲食・衣服及び湯薬もてすることあらば この人は無量の罪を生滅して また三悪道に堕せず この故に我いま普く汝に告ぐ 欲成仏道を成ぜんと欲せば常に禅にあれ もし阿蘭若に住することあたはざれば、応当にかの人を供養すべし
と。<已上> 汎爾はんにの禅定すら、なほすでにかくの如し。いはんや念仏三昧はこれ王三昧なるをや。
 問、若禅定業、勝読誦解義等、云何、法華経分別功徳品、以八十万億那由他劫所修前五波羅蜜功徳、校量聞法華経一念信解功徳、百千万億分之一分、何況、広為他説耶、答、此等諸行、各有浅深、謂偏円教有差別故、若当教論、勝劣如前、若諸教相対、偏教禅定、不及円教読誦事業、大集宝積、約一教論、法華校量、偏円相望、是故、諸文義不相違、念仏三昧、亦復如是、偏教三昧、当教為勝、円人三昧、普勝諸行、又定有二、一者慧相応定、是為最勝、二者暗禅、未可為勝、念仏三昧、応是初摂 問ふ。もし禅定の業にして読誦・解義等よりも勝れたらば、いかんぞ、法華経の分別功徳品に、以八十万億那由他劫に修する所の、前の五波羅蜜の功徳を以て、聞法華経を開いて一念信解する功徳に校量して、百千万億分の一分なりとする。いかにいはんや、広く他の為に説かんをや。
答ふ。これ等の諸行におのおの浅深あり。謂く、偏円の教に差別あるが故に。もし当教にて論ずれば、勝劣は前の如し。もし諸教を相対すれば、偏教の禅定は、円教の読誦の事業にも及ばず。大集・宝積は、一教に約して論じ、法華の校量は、偏円相望す。この故に、諸文の義、相違せざるなり。念仏三昧も亦またかくの如し。偏教の三昧は、当教に勝れたりとなし、円人の三昧は、普く諸行に勝れり。また定に二あり。一には、慧相応の定。これを最勝となす。二には暗禅。いまだ勝となすべからず。念仏三昧は応にこれ初の摂なるべし。
 第八、信毀因縁者、般舟経云、不独於一仏所作功徳、不於〔若〕二若三若十、悉於百仏所、聞是三昧、却後世時、聞是三昧者、書学誦持経巻、最後守一日一夜、其福不可計、自致阿惟越致、所願者得 第八に、信毀の因縁とは、般舟経に云く、
独り一仏の所に於て功徳を作りしのみにあらず。〔もしは〕二、もしは三、もしは十に於てせるにもあらず。悉く百仏の所に於てこの三昧を聞きしかば、却いて後世の時にもこの三昧を聞くものなり。経巻を書き学び誦持して、最後に守ること一日一夜すれば、その福は計るべからず。自ら阿惟越致に到り、願ふ所のものを得るなり。
 問、若尓、聞者決定応信、何故聞、有信不信、答、無量清浄覚経云、善男子善女人、聞無量清浄仏名、歓喜踊躍、身毛為起、如抜出者、皆悉〔宿世〕宿命、已作仏事、其人有民、疑不信者、皆従悪道中来、殃悪未尽、此未得解脱也 <略抄> 問ふ。もししからば、聞く者は決定して応に信ずべし。何が故に、聞くといえども信ずると信ぜざるとありや。
答ふ。無量清浄覚経に云く、
善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞き、歓喜して踊躍して、身の毛為に起つこと、抜け出づるが如くなる者は、皆悉く〔宿世の〕宿命に、已に仏事を作せるものなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざる者は、皆悪道の中より来りて、殃悪いまだ尽きざるもの、これいまだ解脱を得ざるなり。
と。<略抄>
 又大集経第七云、若有衆生、已於無量無辺仏所、殖衆徳本、乃得聞是如来十力四無所畏不共之法三十二相<乃至> 下劣之人、不能得聞如是正法、仮使得聞、未必能信、 <已上> また大集経の第七に云く、
もし衆生ありて、已に無量無辺の仏の所に於てもろもろの徳本を殖えたるものは、乃ちこの如来の十力・四無所畏・不共之法・三十二相を聞くことを得。<乃至> 下劣の人は、かくの如き正法を聞くことを得るあたはず。仮使ひ、聞くことを得とも、いまだ必ずしも信ずることあたわず。
 当知、生死因縁、不可思議、薄徳得聞、難知其縁、如烏豆聚有一緑豆、但彼雖聞、而不信解、是即薄徳之所致耳 当に知べし、生死の因縁は不可思議なることを。薄徳にして聞くことを得るは、その縁を知り難し。烏豆うずあつまりに一の緑豆あるが如し。ただし彼、聞くといへどもしかも信解せざるは、これすなはち薄徳の致す所なるのみ。
 問、仏於往昔、具修諸度、尚於八万歳、不能聞此法、云何薄徳、輒得聴聞、設許希有、猶違道理、答、此義難知、試案之云、衆生善悪、有四位別、一悪用偏増、此位無聞法、如法華云、増上慢人、二百億劫、常不聞法、二善用偏増、此位常聞法、如地住已上大菩薩等、三善悪交際、謂垂捨凡入聖之時、此位中有一類之人、聞法甚難、適聞即悟、如常啼菩薩須達老女等、或為魔所障、或為自惑障、雖隔聞見、不久即悟、四善悪容預、此位善悪同、是生死流転法故、多難聞法、非悪増故、非一向無聞、非交際故、雖聞無巨益、六趣四生、蠢々類是、故上人中、亦有難聞、凡愚之中、亦有聞者、此亦未決、後賢取捨  問ふ。仏、往昔に於て、具さに諸度を修せしに、なほ八万歳に於てこの法を聞くことあたわざりき。いかんぞ、薄徳にして輒く聴聞することを得ん。たとひ希有なりとして許すともなほ道理に違はん。
答ふ。この義、知り難し。試みにこれを案じて云く、衆生善悪に、四位の別ありと。一には、悪用偏へに増す。この位には法を聞くことなし。法華に、「増上慢の人は、二百億劫、常に法を聞かず」と云うが如し。二には善用偏へに増す。この位には常に法を聞く。地・住已上の 大菩薩等の如きなり。三には善悪交際す。謂く、凡を捨てて聖に入らんとする時なり。この位の中には、一類の人ありて、法を聞くこと甚だ難し。たまたま聞けば即ち悟る。常啼菩薩、須達の老女等の如きなり。或は摩の為に障へられ、或は自らの惑の為に障へられて、雖隔聞見することを隔てたりといえども、不久しからずして即ち悟る。四には、善悪容やかに預る。この位には、善悪は同じくこれ生死流転の法なるが故に、多くの法を聞くこと難し。悪の増すにはあらざるが故に、一向に無聞なるにはあらず、交際するにはあらざるが故に、聞くといえども巨益なし。六趣・四生に蠢々たる類、これなり。故に上人の中にもまた聞き難きものあり、凡愚の中にもまた聞く者あり。これまたいまだ決せず。後賢、取捨せよ。
 問、不信之者、得何罪報、答、称揚諸仏功徳経下巻云、其有不信讃嘆称揚阿弥陀仏名号功徳、而謗毀者、五劫之中、当堕地獄、具受衆苦 問ふ。不信の者はいかなる罪報をか得るや。
答ふ。称揚諸仏功徳経の下巻に云く、
それ阿弥陀仏の名号の功徳を讃嘆し称揚することを信ぜずして、謗毀することあらん者は、五劫の中に、当に地獄に堕ちて、具さにもろもろの苦を受くべし。
と。
 問、若無深信、生疑念者、終不往生、答、若全不信、不修彼業、不願求者、理不応生、若雖疑仏智、而猶願彼土、修彼業者、亦得往生、如双観経云、若有衆生、以疑惑心、修諸功徳、願生彼国、不了仏智、不思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智、於此諸智、疑惑不信、然猶信罪福、修習善本、願生彼国、此諸衆生、生彼宮殿、寿五百歳、当不見仏、不聞経法、不見菩薩声聞聖衆、是故、於彼国土、謂之胎生  問ふ。もし深信なくして疑念を生ずる者は、終に往生せざるや。
答ふ。もし全く信ぜず、かの業を修せず、願求せざる者は、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修する者は、また往生することを得。双観経に云ふが如く、
もし衆生ありて、疑惑の心を以て、もろもろの功徳を修し、かの国に生まれんと願ひ、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らず、この諸智に於て疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生まれんと願はん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、寿五百歳、当に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ざるべし。この故に、かの国土に於てはこれを胎生と謂ふ。
<已上> 疑仏智慧罪当悪道、然随願往生、是仏悲願力、清浄覚経、以此胎生、為中輩下輩人、然諸師所釈、不能繁出 と。<已上> 疑仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当れり。しかも願の随に往生するは、これ仏の悲願の力なり。清浄覚経には、この胎生を以て中輩・下輩の人となせり。しかれども諸師の所釈、繁く出すことあたはず。
 問、言仏智等、其相云何、答、憬興師、以仏地経五法、今名五智、謂清浄法界名仏智、以大円鏡等四、如次当不思議等四也、玄一師、仏智如前、以後四智、逆対成事智等四也、有余異解、不可煩之 問ふ。仏智等と言うは、その相いかん。
答ふ。憬興師は、仏地経の五法を以て、今は五智に名づく。謂く、清浄法界を仏智と名づけ、大円鏡等の四を以て、次での如く不思議等の四に当つるなり。玄一師は、仏智は前の如くなるも、後の四智を以て、逆に成事智等の四に対するなり。余の異解あれども、これを煩しくすべからず。
 第九、助道資縁者、問、凡夫行人、要須衣食、此雖小縁、能弁大事、裸餧不安、道法焉在、答、行者有二、謂在家出家、其在家人、家業自由、餐飯衣服、何妨念仏、如木槵経瑠璃王行、其出家人亦有三類、若上根者、草座鹿皮、一菜一菓、如雪山大士是也、若中根者、常乞食糞掃衣、若下根者、檀越信施、但少有所得、即便知足、具如止観第四、況復若仏弟子、専修正道、無所貪求者、自然具資縁 第九に、助道の資縁とは、問ふ、凡夫の行人は、要ず衣食を須ふ。これ小縁なりといへども、能く大事を弁ず。裸・にして安からずは、道法いづくんぞあらん。
答ふ。行者に二あり。謂く、在家と出家となり。その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げんや。木槵経の瑠璃王の行の如し。その出家の人はまた三類あり。もし上根の者は草座・鹿皮・一菜・一菓なり。雪山大士の如き、これなり。もし中根の者は常に乞食・糞掃衣なり。もし下根の者は檀越の信施なり。ただし少しく所得あらば、即便ち足るを知る。具には止観の第四の如し。いはんやまた、もし仏弟子にして、専ら正道を修し、貪求する所なき者、 自然に資縁を具す
、如大論云、譬如比丘貪求者、不得供養、無所貪求、則無所乏短、心亦如是、若分別取相、則不得実法、又大集月蔵分中、欲界六天、日月星宿、天竜八部、各於仏前、発誓願言、若仏声聞弟子、住法順法、三業相応、而修行者、我等皆共、護持養育、供給所須、令無所乏、若復世尊声聞弟子、無所積聚、護持養育、又言、若復世尊声聞弟子、住於積聚、乃至三業与法、不相応者、亦当棄捨、不復養育 如大論に云ふが如し。
譬へば、如比丘の貪求する者は供養を得ず。貪求する所なければ則ち乏短する所なきが如し。心もまたかくの如し。もし分別して相を取れば則ち実法を得ず。
と。また大集月蔵分の中に、欲界の六天・日月星宿・天竜八部、おのおの仏前に於て誓願を発して言く、
もし仏の声聞の弟子にして、法に住し法に順じ、三業相応して、しかも修行せん者をば、我等皆共に護持し養育し、所須を供給して、乏くる所なからしめん。もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚する所なきを、護持し養育せん。
と。また言く、
もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚に住し、乃至、三業と法との相応せざらん者は、また当に棄捨すべし。また養育せず。
 問、凡夫不必三業相応、若禹欠漏、応無依怙、答、如是問難、是即懈怠、無道心者之所致也、若誠求菩提、誠欣浄土者、寧捨身命、豈破禁戒、応以一世勤労、期永劫妙果也、況復設雖破戒、非無其分、如同経仏言  問ふ。凡夫は必ずしも三業相応せず。もし欠漏することあらば、応に依怙なかるべし。
答ふ。かくの如き問難、これ即ち懈怠にして道心なき者の致す所なり。もし誠に菩提を求め、誠に浄土を欣はん者は、むしろ身命を捨つとも、あに禁戒を破らんや。応に一世の勤労を以て、永劫の妙果を期すべきなり。いはんやまた、復設雖破戒を破るといへども、非無その分なきにあらざるをや。同じ経に仏の言ひたまへるが如し。
若有衆生、為我出家、剃除鬚髪、被服袈裟、設不持戒、彼等悉已、為涅槃印之所印也、若復出家、不戒持者、有以非法、而作悩乱、罵辱毀訾、以手刀杖、打縛斫截、若奪衣鉢、及奪種々資生具者、是人則壊三世諸仏真実報身、則挑一切天人眼目、是人為欲穏没諸仏所有正法三宝種故、令諸天人不得利益堕地獄故、為三悪道増長盈満故、云々、
もし衆生ありて、わが為に出家し、鬚髪を剃除して、袈裟を被服せんに、たとひ不持戒は持たずとも、彼等は悉く已に、涅槃の印の為に印せられたるなり。もしまた出家して、戒を持たざる者に、非法を以てしかも悩乱を作し、罵辱し毀訾し、手に刀杖を以て打縛し斫截し、もしは衣鉢を奪ひ、及び種々の資生の具を奪ふことあらば、この人は則ち三世諸仏の真実の報身を壊り、則ち一切天人の眼目を挑るなり。この人は、為欲諸仏の所有の正法と三宝の種を穏没せんと欲するが為の故に。もろもろの天人をして利益を得ずに地獄に堕せしむるが故に。三悪道を増長して盈満せしむるが為の故。
と云々。
尓時復有一切天竜、乃至一切迦吒富単那人非人等、皆悉合掌、作如是言、我等於仏一切声聞弟子、乃至若復不持禁戒、剃除鬚髪、著袈裟片者、作師長想、護持養育、与諸所須、令無乏少、若余天竜、乃至迦吒富単那等、作其悩乱、乃至悪心、以眼視之、我等悉共、令彼天竜富単那等、所有諸相欠減醜陋、令彼不復得与我等共住共食、亦復不得同処戲咲、如是擯罰<已上取意> 又云、
その時また一切の天・竜、乃至、一切の迦吒富単那・人非人等ありて、皆悉く合掌して、かくの如き言を作さく、「我等、仏の一切の声聞の弟子に於て、乃至、もしはまた禁戒を持たざらんも、鬚髪を剃除して、袈裟のかたはしをも著けたらん者をば、師長の想を作して護持し養育し、もろもろの所須を与へて、乏少すえることなからしめん。もし余の天・竜、乃至、迦吒富単那等ありて、その悩乱を作し、乃至、悪心にて以眼を以てこれを視ば、我等悉く共に、令かの天・竜・富単那等の所有の諸相をして、欠減して醜陋ならしめん。彼をして、また我等と共に住し共に食することを得ず、亦まら不得同処を同じくして戲咲することも得ざらしめん。かくの如く是擯罰せん」と。
と。<已上取意> また云く、
尓時世尊、告上首弥勒、及賢劫中一切菩薩摩訶薩言、諸善男子、我昔行菩薩道時、曾於過去諸仏如来、作是供養、以此善根、与我作於三菩提因、我今憐愍諸衆生故、以此報果、分作三分、留一分自受、第二分者、於我滅後、与禅解脱三昧堅固相応声聞、令無所乏、第三分者、与彼破戒読誦経典、相応声聞正法像法、剃頭著袈裟者、令無所乏、弥勒、我今復以三業相応諸声聞衆、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、寄付汝手、勿令乏少孤独而終、及以正法像法毀破禁戒著袈裟者、寄付汝手、勿令彼等、於諸資具乏少而終、亦勿令有旋陀羅王、共相悩害身心受苦、我今復以彼諸施主、寄付汝手<已上> 破戒尚尓、何況持戒、声聞尚尓、何況発大心、至誠念仏耶
その時、世尊、上首弥勒及び賢劫の中の一切菩薩摩訶薩に告げて言く、「もろもろの善男子。我、昔菩薩道を行ぜし時、曾て過去の諸仏如来に於てこの供養を作し、この善根を以てわが与に三菩提の因と作せり。我、今もろもろの衆生を憐愍するが故に、この報果を以て分ちて三分と作し、一分は留め自ら受け、第二の分をば、わがが滅後に於て、禅解脱三昧と堅固に相応する声聞に与へて、乏くる所なからしめ、第三の分をば、かの破戒にして、経典を読誦し、声聞に相応して正法・像法に、頭を剃り袈裟を著ん者に与へて、乏くる所なからしめん。弥勒。我、今また三業相応のもろもろの声聞衆、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷を以て、汝が手に寄付す。、乏少孤独にして終らしむることなかれ。及び、正法・像法に、禁戒を毀破して、袈裟を著ん者を以て、汝が手に寄付す。勿令彼等をして、もろもろの資具に於乏少にして終らしむることなかれ。また旋陀羅王の、共に相悩害して身心に苦を受くることあらしむことなかれ。我、今またかのもろもろの施主を以て、汝が手に寄付す」と。
<已上> 破戒すらなほしかり。いかにいわんや、持戒をや。声聞すらなほしかり。いかにいはんや、大心を発して至誠に念仏せんをや。
 問、若破戒人、亦為天竜所護念者、云何梵網経云、五千鬼神、払破戒比丘跡、涅槃経云、国王群臣、及持戒比丘、応当苦治駈遣呵嘖破戒者耶、答、若如理苦治、即順仏教、若非理悩乱、還違聖旨、故不相違、如月蔵分仏言  問ふ。もし、破戒の人も、また天竜の為に護念せられなば、いかんぞ、梵網経には、「五千の鬼神、破戒の比丘の跡を払ふ」と云ひ、涅槃経には「国王・群臣、及び持戒の比丘は、応当に戒の者を、苦治し駈遣し呵嘖すべし」と云えるや。
答ふ。もし理の如き苦治は、即ち順仏教に順ずれども、もし非理にあらざる悩乱は、還りて聖旨に違ふ。故に相違はせざるなり。月蔵分に仏の言へるが如し。
国王群臣、見出家者、作大罪業大殺生大偸盗大非梵行大妄語、及余不善、如是等類、但当如法擯出国土城邑村落、不聴在寺、亦復不得同僧事行、利養之分、悉不共同、不得鞭打、若鞭打者、理所不応、又亦不応口罵辱、一切不応加其身罪、若故違法、而讁󠄃罪者、是人便於解脱退落、必定帰趣阿鼻地獄、何況鞭打為仏出家、具戒持者<略抄>
国王・群臣は、見出家の者の、作大罪業たる大殺生・大偸盗・大非梵行・大妄語、及び余の不善を作すを見ては、かくの如き等の類を、ただ当に法の如く、国土・城邑・村落より擯出して、寺にあることを聴さざるべし。また亦、不得同僧の事行を同じくすることを得ず、利養の分は悉く不共に同じくせざるも、鞭打することを得ざれ。もし鞭打せば、理応ぜざる所なり。また亦、口もて罵辱すべからず、一切、その身に罪を加ふべからず。もしことさら法に違して、罪を讁󠄃むれば、この人は便ち解脱に於て退落し、必定して阿鼻地獄に帰趣せん。いかにいはんや、仏の為に出家して、具さに戒を持てる者を鞭打せんをや。
と。<略抄>
 問、人間擯治、差別可然、非人之行、猶未決了、梵網経一向払跡、月蔵経一向供給、那忽乖角、
答、為知罪福旨、要須決人行、不可必決非人所行、若制若開、各生巨益、或復如人意楽不同、非人願楽亦不同耳、学者応決
 問ふ。人間の擯治ひんじは差別然るべし。非人の行は、いまだ決せず。梵網経には一向に跡を払ふも、月蔵経には一向に供給す。なんぞ忽ちに乖角けかくせるや。、
答ふ。罪福の旨を知らんが為には、要ずすべからく人の行を決すべし。必ずしも非人の所行を決すべからず。もしは制もしは開、おのおの巨益を生ず。或はまた人の意楽の不同なるが如く、非人願楽もまた不同なるのみ、学者、応に決すべし。
 問、因論生論、於彼犯戒出家之人、供養悩乱、得幾罪福、答、十輪経偈云、被恒河沙仏、解脱幢相衣、於此起悪心、定堕無間獄<袈裟名為解脱幢衣> 月蔵分云、若悩乱彼、其罪多於出万億仏身血罪、若供養之、猶得無量阿僧祇大福徳聚<取意> 問ふ。因論生論、かの犯戒の出家の人に於て供養し悩乱せば、幾ばくの罪福を得るや。
答ふ。十輪経の偈に云く、
恒河沙の仏の、 解脱幢相の衣を被たり これに於て悪心を起こさば 定んで無間獄に堕ちなん
と。<已上><袈裟を名づけて解脱幢の衣となす> 月蔵分に云く、
もし彼を悩乱せば、その罪は万億の仏身の血を出す罪よりも多し。もしこれを供養せば、なほ無量阿僧祇の大福徳聚を得ん。
と。<取意>
 問、若尓一向応供養之、何可治之招大罪報耶、答、若有其力、不苦治之、彼亦得罪過、是仏法大怨、故涅槃経第三云、持法比丘、見有戒破壊正法者、即応駆遣呵嘖挙処、若善比丘、見壊法者、置不呵嘖駆遣挙処、当知、是人仏法中怨、若能駆遣、呵嘖挙処、是我弟子、真声聞也<乃至> 諸国王、及四部衆、応当勧励諸学人等、令得増上戒定智慧、若有不学是三品法、懈怠破戒正法毀者、王者大臣、四部之衆、応当苦治、又云、若有比丘、雖持禁戒、為利養故、与破戒者、坐起行来、共相親附、同其事業、是名破戒<乃至> 若有比丘、在阿蘭若処、諸根不利、闇鈍𧄼瞢、少欲乞食、於説戒日、及自姿時、教諸弟子、清浄懺悔、見非弟子多犯禁戒、不能教令清浄懺悔、而便与共説戒自姿、是名愚痴僧、<已上、略抄> 明知、若過若不及、皆是違仏勅、其間消息、都在得意 問ふ。もししからば一向に応にこれを供養すべし。なんぞこれを治して大罪報を招くべきや。
答ふ。もしその力ありて、これを苦治せずは、かれも罪過を得ん。これ仏法の大いなる怨なり。故に涅槃経の第三に云く、
持法の比丘は、戒を破り正法を壊する者あるを見ては、即ち応に駆遣し、呵嘖して挙処すべし。もし善比丘、壊法の者を見て、置きて呵嘖し駆遣し挙処せずは、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵嘖し挙処せば、これわが弟子にして、真の声聞なり。<乃至>もろもろの国王及び四部の衆は、応当にもろもろの学人等を勧励して、増上の戒・定・智慧を得しむべし。もしこの三品の法を学ばず、懈怠破戒にして正法を毀る者あらば、王者・大臣・四部の衆は応当に苦治すべし。
と。また云く、
もし比丘ありて、禁戒を持ついへども、為利養の為の故に、破戒の者とともに坐起行来し、共に相親附し、その事業を同じくせば、これを破戒となづく。<乃至>もし比丘ありて、阿蘭若処にあれども諸根利ならず、闇鈍𧄼瞢あんどんとうもうにして少欲に乞食し、説戒の日及び自姿の時に於ては、もろもろの弟子に教えて清浄に懺悔せしめ、弟子にあらざるものの多く禁戒を犯せるを見ては、教えて清浄に懺悔せしむることあたわず、しかも便ち与共に説戒し自姿せば、これを愚痴僧と名づく。
と。<已上、略抄> 明らかに知んぬ。もしは過もしは及ばざる、皆これ仏勅に違ふことを。その間の消息は、都べて意を得るにあり。
 第十、助道人法者、略有三、一須明師善内外律、能開除妨障、恭敬承習、故大論云、又如雨堕不住山頂、必帰下処、若人憍心自高、則法水不入、若恭敬善師、功徳帰之、二須同行如共渉嶮、乃至臨終、互相勧励、故法華云、善知識者、是大因縁、又阿難言、善知識者、是半因縁、仏言、不尓、是全因縁也、三於念仏相応教文、常応受持披読習学、故般舟経偈云、此三昧経真仏語、設聞遠方有是経、用道法故往聴受、一心諷誦不忘捨、仮使往求不得聞、其功徳福不可尽、無能称量其徳義、何況聞已即受持<以四十里〔四〕百里〔四〕千里、為遠方也>  第十に、助道の人法とは、略して三あり。一には、明師の内外の律に善くし、能く妨障を開徐するを須ひて、恭敬し承習せよ。故に大論に云く、
また雨の堕つるに、山の頂に住ずして、必ず帰下き処に帰するが如し。もし人、憍心をもて自ら高くすれば、則ち法水入らず。もし善き師を恭敬すれば、功徳これに帰す。
と、二には同行の共に渉を嶮るがごとくするを須ひ、乃至、臨終まで互に相勧励せよ。故に法華に云く、
善知識者、是大因縁
と。また
阿難言く、「善知識はこれ半因縁なり」と。仏の言はく、「しからず。これ全因縁なり」と。
と。三には念仏相応の教文に於て、常に応に受持し披読し習学すべし。故に般舟経の偈に云く、
この三昧経は真の仏語なり たとひ遠方にこの経ありと聞くとも 道法を用ての故に往きて聴受し 一心に諷誦して忘捨せざれ 仮使往きて求めて聞くことを得ざらんもその功徳の福は尽すべかず。無能くその徳義を称量するものなし いかにいはんや聞き已りて即ち受持せんをや
と。<四十里・〔四〕百里・〔四〕千里を以て遠方となすなり>
 問、何等教文、念仏相応、答、如前所引西方証拠、皆是其文、然正明西方観行、并九品行果、不如観無量寿経<一巻、薑良耶舎訳> 説弥陀本願、并極楽細相、不如双観無量寿経<二巻、康僧鎧訳> 明諸仏相好、并観相滅罪、不如観仏三昧経<十巻或八巻、覚賢訳> 明色身法身相、并三昧勝利、不如般舟三昧経<三巻或二巻、支婁迦訳> 念仏三昧経<六巻或五巻、功徳直、共玄暢訳> 明修行方法、不如上三経、并十往生経<一巻> 十住毘婆沙論<十四巻或十二巻、竜樹造、羅什訳> 日々読誦、不如小阿弥陀経<一巻五紙、羅什訳> 結偈惣説者、不如無量寿経優婆提舎願生偈<或名浄土論、或名往生論、世親造、菩提留支訳、一巻> 修行方法、多在摩訶止観<十巻> 及善導和尚観念法門、并六時礼讃<各一巻> 問答料簡、多在天台十疑<一巻> 道綽和尚安楽集<二巻> 慈恩西方要決<一巻> 懐感和尚群疑論<七巻> 記往生人、多在迦才師浄土論<三巻> 并瑞応伝<一巻> 其余雖多、要不過此 問ふ。何等の教文か。念仏に相応するや。
答ふ。前に引く所の西方の証拠の如きは皆これその文なり。しかれども、正しく西方の観行、并に九品の行果を明かすことは、観無量寿経<一巻、薑良耶舎訳>にはしかず。 弥陀の本願、并に極楽の細相を説くことは、双観無量寿経<二巻、康僧鎧訳>にはしかず。 諸仏の相好、并に観相の滅罪を明かすことは、観仏三昧経<十巻或八巻、覚賢訳>にはしかず。 色身・法身の相、并に三昧の勝利を明かすことは、般舟三昧経<三巻或二巻、支婁迦訳>・念仏三昧経<六巻或五巻、功徳直、共玄暢訳>にはしかず。修行の方法を明かすことは、不如上の三経、并に十往生経<一巻>・十住毘婆沙論<十四巻或十二巻、竜樹造、羅什訳>にはしかず。日々の読誦は、小阿弥陀経<一巻五紙、羅什訳>にはしかず。偈を結びて惣じて説くことは、無量寿経優婆提舎願生偈<或名浄土論、或名往生論、世親造、菩提留支訳、一巻>にはしかず。 修行の方法は、多く摩訶止観<十巻>及び善導和尚の観念法門并に六時礼讃<おのおの一巻>にあり。 問答料簡は、多く在天台の十疑<一巻>、道綽和尚の安楽集<二巻> 慈恩の西方要決<一巻> 懐感和尚の群疑論<七巻>にあり。往生の人を記すことは、多く迦才師の浄土論<三巻> 并に瑞応伝<一巻>にあり。 その余は多しというども、要はこれに過ぎず。
 問、行人自応学彼諸文、何故今労著此文耶、答、豈不前言、如予之者、難披広文故、聊抄其要耶  問ふ。行人自ら応にかの諸文を学ぶべし。何が故ぞ、今労らはしくこの文を著せるや。
答ふ。あに前に言はずや。予が如き者、広き文を披くこと難きが故に、いささかその要を抄すと。
 問、大集経云、或抄写経法、洗脱文字、或損壊他法、或闇蔵他経、由此業縁、今得盲報、云々、而今抄経論、或略多文、或乱前後、応是生盲因、何為自害耶、答、天竺震旦論師人師、引経論文、多略取意、故知、錯乱経旨、是為盲因、省略文字、非是盲因、況今所抄、多引正文、或是諸師所出文也、又至不能出繁文者、注或云乃至、或云略抄、或云取意也、是即欲令学者易勘本文也 問ふ。大集経に云く、
或は経法を抄写するに、文字を洗脱し、或は他の法を損壊し、或は他の経を闇蔵せり。この業縁に由りて、今盲のむくいを得。
と云々。しかるに今、経論を抄するに、或は多くの文を略し、或は前後を乱る。応にこれ生盲の因なるべし。なんぞ自ら害することをなすや。
答ふ。天竺・震旦の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取れり。故に知んぬ、経旨を錯乱するは、これ盲の因たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあららざることを。いはんや、今抄する所は、多く正文を引き、或はこれ諸師の出だせる所の文なり。また繁ぎ文を出すことあたはざるに至りては、注して、或は云乃と云ひ、或は略抄と云ひ、或は取意と云へるなり。これ即ち欲令学者をして本文を 勘へ易からしめんと欲してなり
 問、所引正文、誠可生信、但屡加私詞、盍招人謗耶、答、雖非正文、而不失理、若猶有謬、苟不執之、見者取捨、令順正理、若偏生謗、亦不敢辞、如華厳経偈云、若有見菩薩、修行種々行、起善不善心、菩薩皆摂取、当知、生謗亦是結縁、我若得道、願引摂彼、彼若得道、願引摂我、乃至菩提、互為師弟  問、因論生論、多日染筆、劬労身心、其功非無、期何事耶、答、依此諸功徳、願於命終時、得見弥陀仏、無辺功徳身、我及余信者、既見彼仏已、願得離垢眼、証無上菩提 問ふ。引く所の正文は、誠に信を生ずべし。ただしばしば私の詞を加へたるは、なんぞ人の謗を招かざらんや。
答ふ。正文にあらずといえども、しかも理を失わず。もしなほ謬あらば、いやしくもこれを執せず。見ん者、取捨して、正理に順ぜしめよ。もし偏へに謗を生ぜば、またあへて辞せず。華厳経の偈に云ふが如し。
もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩は皆摂取す
と。 当に知るべし。謗を生ずるもまたこれ結縁なり。我もし道を得ば、願はくば彼を引摂せん。彼もし道を得ば、願はくは我を引摂せよ、乃至、菩提まで互に師弟とならん。  問ふ。因論生論、多日、筆を染て身心を劬労せし、その功なきにあらず。何事をか期するや。
答ふ。「このもろもろの功徳に依りて 願はくは命終の時に於て 弥陀仏の 無辺の功徳の身を見たてまつることを得ん。我及び余の信者と 既にかの仏を見たてまつり已らば 願はくは離垢の眼を得て  無上菩提を証せん」となり。
 往生要集巻下
往生要集巻下
(源信のあとがき)  
永観二年甲申冬十一月、於天台山延暦寺首楞厳院、撰集斯文、明年夏四月、畢于其功矣、有一僧夢、毘沙門天、将両丱<音串>童、来告云、源信所撰往生集、皆是経論文也、一見一聞之倫、可証無上菩提、須加一偈、広令流布、他日語夢、故〔作〕偈曰 已依聖教及正理、勧進衆生生極楽、乃至展転一聞者、願共速証無上覚
(源信のあとがき)
永観二年甲申きのえさる冬十一月、天台山延暦寺首楞厳院しゅりょうごんいんに於て、この文を撰集し、明年夏四月、その功を畢れり。一僧ありて夢みらく、毘沙門天、両の丱<音串>童を将いて、来り告げて云く、「源信、撰する所の往生集は、皆これ経・論の文なり。一見・一聞のともがらも、無上菩提を証すべし。すべからく一偈を加えて、広く流布せしむべし」と。他日夢を語る。故に偈を〔作りて〕曰く
聖教及び正理に依りて 衆生を勧進して生極楽に生まれしむ 乃至展転して一たびも聞かん者 願はくは共に速かに証無上覚を証ぜん
と。
(源信の宋の国への手紙)
 仏子源信、暫離本山、頭陀于西海道諸州名嶽霊窟、適遠客著岸之日、不図会面、是宿因也、然猶方語未通、帰朝各促、更封手礼、述以心懐、側聞、法公之本朝、三宝興隆、甚随喜矣、我国東流之教、仏日再中、当今剋念極楽界、帰依法華経者、熾盛焉、仏子是念極楽其一也、以本習深故、著往生要集三巻、備于観念、夫一天之下、一法之中、皆四部衆、何親何疎、故以此文、敢附帰帆、抑在本朝猶慙其拙、況於他郷乎、然而本発一願、縦有誹謗者、縦有讃歎者、併結共我往生極楽之縁焉、又先師故慈恵大僧正<諱良源>作観音讃、著作郎慶保胤、作十六相讃及日本往生伝、前進士為憲〔作〕法華経賦、同亦贈欲令知異域之有此志、嗟乎一生苒々、両岸蒼々、後会如何、泣血而已、不宣以状 正月十五日 天台楞厳院某申状 大宋国某賓旅下
(源信の宋の国への手紙)
仏子源信、暫く本山を離れ、西海道の諸州、名嶽・霊窟に頭陀するに、たまたま遠客著岸之の日、図らざるに会面せり。これ宿因なり。しかれどもなほ方語、いまだ通ぜず。帰朝おのおの促し、更に 手礼に封じて、述ぶるに心懐を以てすほのかに聞く、法公の本朝には、三宝興隆すと。甚だ随喜す。わが国に東流の教も、仏日再びあがる。当今、極楽界を剋念こくねんし、法華経に帰依する者、熾盛なり。仏子はこれ極楽を念ずるその一なり。本習深きを以ての故、往生要集三巻を著して、観念に備えたり。それ一天の下、一法の中、皆四部の衆なり。いづれか親しく、いづれか疎からん。故にこの文を以て、あへて帰帆に附す。そもそも本朝にありてもなほその拙を慙づ。いはんや他郷に於てをや。しかれども、本より一願を発せしことなれば、たとひ誹謗の者ありとも、たとひ讃歎する者ありとも、併に我と共に往生極楽の縁を結ばん。また先師故慈恵大僧正<諱良源>観音讃を作り、著作郎慶保胤、十六相讃及び日本往生伝を作り、前の進士為憲、法華経賦を〔作れり〕。同じくまた贈りて、欲令知異域の、この志あるものに知らしめんとす。
ああ、一生は苒々ぜんぜんたり。両岸蒼々たり。後会いかん。泣血するのみ。不宣以状ふせんいじょう。 正月十五日           天台楞厳院某申状しんじょう
大宋国某賓旅下
 (その返書)  
大宋国台州弟子、周文徳謹啓、仲春漸暖、和風霞散、伏惟、法位無動、尊体有泰、不審不審、悚恐悚恐、唯文徳入朝之初、先向方、礼拝禅室、旧冬之内、喜便信、啓上委曲、則大府貫主豊嶋才人、附書状一封、奉上先畢、計也、経披覧歟、欝望之情、朝夕不休、馳憤之際、遇便脚重啓達、唯大師撰択往生要集三巻、捧持詣天台国清寺、附入既畢、則其専当僧、請領状予也、爰緇素随喜、貴賎帰依、結縁男女、弟子伍佰余人、各発虔心、投捨浄財、施入於国清寺、忽飾造五十間廊屋、彩画柱壁、荘厳内外、供養礼拝、瞻仰慶讃、仏日重光、法燈盛朗、興隆仏法之洪基、往生極楽之因縁 只在於斯、方今文徳、忝遇衰弊之時、免取衣食之難、仰帝皇之恩沢、未隔詔勅、并日之食、甑󠄆重欲積塵、何避飢饉之惑、伏乞大師垂照鑑、弟子不勝憤念之至、敬表礼代之状、不宣謹言 二月十一日 大宋国弟子周文徳申状  謹上 天台楞厳院源信大師禅室 法座前
(その返書)
  大宋国台州の弟子周文徳、謹んで啓す。
仲春漸く暖かにして、和風霞散す。伏して惟みれば、法位動きなく、尊体泰きことありや、不審いぶかし不審し。悚恐おそる悚恐る。ただ文徳入朝の初、まづ方に向かひて禅室に礼拝せり。旧冬の内、便信を喜びて委曲を啓上せり。則ち大府の貫主、豊嶋の才人に、書状一封を附して奉上つること先に畢んぬ。おもんみるに、披覧を経つらんか。欝望の情、朝夕休まず。馳憤の際に、便脚に遇ひて重ねて啓達す。ただ大師撰択往生要集三巻は、捧持して天台の国清寺に詣り、附入すること既に畢んぬ。則ちその専当の僧、領状を予に請けたり。ここに緇素随喜し、貴賎帰依し、結縁の男女、弟子伍佰余人、おのおの虔心を発し、浄財を投捨し、施入国清寺に施入して、忽ち五十間の廊屋を飾り造れり。柱壁を彩画し、内外を荘厳し、供養し礼拝し、瞻仰し慶讃せり。仏日光を重ね、法燈、盛朗かなるを盛にす。興隆仏法の洪基、往生極楽の因縁、ただここにあり。
方今、文徳、忝く衰弊の時に遇へども、免取衣食を取るの難を免れたり。帝皇の恩沢を仰ぎ いまだ詔勅を隔てず。并日の食、甑󠄆を重ねて塵を積まんとするも、なんぞ飢饉の惑を避けんや。伏して乞ふ、大師、照鑑を垂れよ。弟子、憤念の至りに勝へず。敬みて礼代の状を表す。不宣謹言。 二月十一日            大宋国弟子周文徳申状  
謹上 天台楞厳院源信大師禅室 法座前
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