様々な思想


思想とはもの思うことの言いである
   

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ひとりでにそうなる

「自然に生じた」宗教というのは、著者である私が勝手に作った表現だが、この表現に、いわば日本流の思想が、みごとに表れていることが興味深い。人間が考えたものであるのに、
「ひとりでにそうなった」
というのが、つまり日本の思想なのである。そのあとさらに「俺のせいじゃない」というの付くと思うのは、私だけの意地悪かもしれない。
この種のことを最初に述べたのは、不肖この私ではない。これも丸山先生である。「歴史意識の古層」という論文のなかで、丸山先生は『古事記』『日本書紀』でいちばん頻繁に使われている語を調べ、それは「なる」だといわれたのである。どうして「なる」なのかというと、たぶん日本はものすごい勢いで草木が繁茂するからである。ここで丸山先生は法学どころか、文科系の約束事全体を飛び越えて、日本の自然条件つまり「理科的な事実」を自説の論拠にしてしまったのである。でもわたしにとって、これはたいへん説得力のある説明だった。その証拠に、論文の詳細は忘れてしまったが、そこだけは明瞭に記憶している。
これがピンとこない人は、大陸の自然条件に思いを致す必要がある。大陸は乾燥していて、しばしば地面が裸で出ている。日本の中に、そんな場所はない。あれば例外で、足尾銅山の跡がそうである。これが公害のためだというのは、小学生でも知っている。
以前私は、
豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくにという表現は、大陸人じゃなきゃ、できないだろう」
と書いたことがある。それが日本の特徴だということは、そもそも外国つまり大陸を知らなければ、いえるはずがない。アキツシマだって、同じである。明治に日本に来たモースという動物学者が、中禅寺湖のほとりでトンボが顔にぶつかる、こんなにトンボの多い国を見たことがない、と日記に書いた。アメリカ人だからそれがわかる。昔から日本に住んでりゃ、トンボが多くて当たり前である。それが日本の特徴だとわざわざいうはずがない。念のためだが、アキツというのはトンボの古語である。
自然のあり方が「なる」という表現を多用する基礎になったのだとすれば、「なる」はたしかに「意識の古層」ではあるが、思想そのものではない。思想とはもっと立派に構築されたものだ。丸山先生はそう思ったのであろう。人為を尽くしてせっかく更地にしたのに、春から梅雨どきに放置しておいたら、地面は草木だらけに「なってしまった」それはつまり「現実」で、
「草木だらけになってしまったノウ」
というのは、どうしようもないその現実に対する「感想」に過ぎない。だから歴史意識もそう「なってしまった」ということに「なる」。
戦争は人為だが、その戦争の結末すら、考えようによっては、「なるようにしか、ならない」。日本独自の進化論とされる今西進化論は、「なるべくしてなる」というものである。右の短い二つの文のなかに、「なる」がなんとそれぞれ二つある。
というわけで、
「日本人というのは、どうもこうもなりませんワ」
と嘆くと、
「いや、なんとかなる」
とだれかが励ましてくれるのである。
それどころか、近世になると、
「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも、ならぬは人のなさぬなりけり」
といった歌が詠まれるように「なる」。これは宮本武蔵だというが、大松博文監督じゃないの、という人もあろう。
もちろんこれは、
「そうなるんだから、しょうがないじゃないか、俺のせいじゃない」
という多数意見に対して、
「お前がやらないんじゃないか、お前のせいだろ」
と訂正が入ったのである。これは都会人に近づいた証拠である。都会の人はなにごとも人為だと考える人だからである。人為とは人間のすることだから、それなら、
「自分のつもりでどうにでもなるんじゃないか」
と考えるようになったのであろう。面倒だから、もう「なる」に括弧はつけない。暇な人は、私がここまで「なる」何回使ったか数えてみてください。

仕方がないという風土

日本人の思想が自然条件に強く制約されることを、西欧と比較して述べたのは、和辻哲郎の『風土』(岩波書店)である。日本の自然に比較すると、たとえば西欧の自然はおだやかで、コントロールしやすい。「ああすれば、こうなる」が成り立ちやすい。だから西欧では、合理的な思想が有力となる。それに比較して、厳しい自然条件を有する日本では、人間のするつもりだけでは、思うような結果が得られる保証はないその結果生じた思想が「なる」だとはいってなかったように思うが、ともあれ和辻、丸山と大先生をつないでみれば、日本の思想はその基礎がまず風土にあるということになろう。世間だけではなく、風土と思想も補完的なのである。
日本の自然災害が、どれだけ大きいか。日本列島の面積は、地球上の陸地面積の四百分の一だという。ところが人類史上に記録されたマグニチュード6以上の地震の二割、噴火の一割が日本だという。そのうえ、毎年、律儀に台風がくる。地震と噴火が多いのは、東日本が北米プレート、西日本がユーラシアプレートの乗っており、その堺が本州の中央を横切る糸魚川ー静岡構造線であること、その境界の南端には、あろうことかフィリッピン海プレートが指状に突っ込んできて、その指の先端に日本の象徴である富士山があるという、とんでもない立地条件にある。千万年ほど遡れば、本州なんて、五つ以上の島々に分かれていたのである。
それから生じる自然災害は、
「だれのせいだ」
と追及してみても、意味がない。いったん起きてしまったら、災害はもはや、
「仕方がない」
のである。起こったことは仕方がないから、前のことは「水に流して」、明日からはあらためて再出発、それがいちばんばんだ、ということになる。
こうした自然条件に制約される社会が、その内部に「自然条件に由来する思想がある」という思想を育てたとしても、不思議はないであろう。それが和辻から丸山へと続く思想の系譜である。

思想がない社会はない

ともあれここまで紹介したのは、日本の無思想、無宗教という、これまでの世間の論議の一部である。それに対して日本に宗教はある、あるいは「なる」という思想があるというのが、どのくらい説得力を持つか走らない。
「阿満氏のいう、そんなものは宗教じゃない、『なる』なんて思想じゃない」
といわれてしまえば、それまでである。
しかし私の基本的な立場は、
「思想のない社会はない」
というものである。
「その根拠は」
と訊かれたら
「思想も宗教もない社会を見せてくれ」
ということになる。
「それこそが日本だ」
と世界に向けて積極的に主張できる人がいるだろうか。

『無思想の発見』養老猛司著 新潮新書

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公開日2022年2月9日